ウサギと言えば、我が家は八年ほど前からウサギを飼っている。名前は複数有り、私は「ミスター・ブウ」と呼んでいる。察せられる通り、そう、あの有名武道系漫画の後半に登場した魔人から取っている。
雄で、なかなか愛らしい。
妹のペットのはずだが、餌をやるのは私か母で、妹は世話をまったくやらない。本当にだらしのない妹だ。今年はもう少し大人になってくれることを祈る。
「ミスター・ブウ」は中越地震を経験している。ショックで寿命が縮まってしまっていないだろうか、と不安に思うが、心配したところでどうしようもない。
ペットというのはかなり早くに死んでしまう。我が家は昔ハムスターを飼っていたが、ずいぶん寿命が短かった。「別れ」というのは悲しい。それに比べウサギは寿命が長めである。しかし、その分、別れの哀しみも大きくなるだろう。不安である。
「ミスター・ブウ」は観葉植物をよく食べようとする。そのたびに母が声を上げて「ミスター・ブウ」を怒る。「ミスター・ブウ」は飛び上がって逃げるのだが、隙を虎視眈々(卯視眈々?)と狙いつづけ、ちょっと目を離すとすかさず植物をかじる。母がそのたびに怒る。はたして「ミスター・ブウ」はスリルを楽しんでいるのだろうか。寿命が縮まってしまうのでないか、と私は気が気ではない。
空が綺麗だったからだ。
これは出かけなくてはすっきりしない。
出かけなくてはならぬ。
そんな思いでもって、家を出発した。
気になっている本が数冊ある。
佐藤哲也氏、本多孝好氏、打海文三氏の小説だ。
何冊かは見つけることができた。
佐藤哲也氏の「ぬかるんでから」
本多孝好氏の「MOMENT」「正義のミカタ」
打海文三氏の「ぼくが愛したゴウスト」「ドリーミング・オブ・ホーム&マザー」
だいたいこんな感じだ。
購入したのは「ドリーミング・オブ・ホーム&マザー」と司馬遼太郎の「馬上少年過ぐ」だ。
「ぬかるんでから」と「ぼくが愛したゴウスト」も欲しかったが、古本屋で探しなおしてみよう、と考えた。
「馬上少年過ぐ」は前々から読みたかった小説。
司馬作品はどれも長編しか読んだことがないが、これは短編集になっている。
きっと面白いはずだ。
いや、面白くないわけがない。
さらに最近、語学学習について小耳に挟んだことがある。
内容説明をすると、英語の勉強をしていたけれど、他の言語、例えばスペイン語やフランス語などの第三の言語を学習したことがきっかけで、英語も分かるようになった、というものだ。
母国語の他に外国語、日本で言えば英語を勉強するが、それをさらにちょっと欲張ってみる。
つまりもう一つ、なにか言語を学ぶことが、返って、英語学習の助けになる、というのだ。
どこで聞いたのかは忘れてしまったが、とにかくそうらしい。
そう聞けば試すのが、実験するのが私の性分である。
書店で語学学習の参考書コーナーへも寄った。
さてそこで問題になるのは、どの言語を学ぶかだ。
日本語を母国語とするものにとってもっとも学び易いのは韓国語らしい。
文法が日本語に近いから、という理由が主らしい。
しかし、私はもう少し、挑戦をしてみようと思った。
最近、私はデンマーク、スウェーデン、フィンランドの教育について調べている。
今は主にデンマークについて調べている。
よってデンマークの言語、デンマーク語を学ぼうと決めた。
参考書を探すと、一冊だけあった。
値段、4500円。
高い。エクスペンシブだ。
手が出ない。
近くにフィンランド語の参考書があった。
値段、4000円。
別売り、カセットテープ。
「カセットテープ!?」
そこに私は驚いた。
どれだけ古いんだ。
こんなものを正規の値段で売るのは、もはや重罪に思える。
しかも、デンマーク語もスウェーデン語もフィンランド語の参考書も、まるで古本屋のそれであるかのように傷んでいる。
書店として、なんとかすべしと思われる。
とにかく、参考書が高すぎる。
金のない奴には、勉強する資格がない、と言いたいのか。
教育の機会均等法に反するではないか。
裁判を起こしたら、現代社会の教科書の隅の〈参考〉に載るかもしれない。
「白熱教室」
なる番組を見るのが、好きなのだが、少し前に放送したもので、面白い政策があった。
外国のどこの国かは忘れましたけど
「グッズ減税、バッズ加税」
なるものがあるそうだ。
ようは、環境とか社会にいいものは減税しましょう。
環境とか社会に悪いものには加税しましょう。
という制度。
いいじゃんこれ。
他にも、いろいろ考えさせられる。
この前、ハーバード白雪教室と題して、あのマイケル・サンデルの「正義について」の講義も放送していた。
面白い。
こういう番組は、素晴らしい。
ここでも教育について考えさせられる。
今度、千葉大学での「命の価値」についての講義が放送されるそうだ。
皆さんにもぜひ、見ていただきたい。
「白熱教室」なる番組に触発されたことで、私もひとつ講義をやりたいと思う。
いや、「講義」というよりは「演説」に近いかもしれない。
ここは、どこかの有名な大学の有名な教授になったような気持ちで、堂々と話してみる。
よっていくらか偉そうになり、腹立たしいかもしれないが、しょせん高校生の一見解に過ぎない、と容赦していただきたい。
またこの講義では読者のことを「君たち」と呼ぶことにする。
その方が本物の講義みたいで格好いい、と思うからだ。
生意気ではあるが、内容は大真面目であるから、そこもご容赦いただきたい。
さらに、私は講義をしながら、できる限り問題を提示し、問うていきたいと思っている。
それについて読者に考えてほしい。
どんなものでも自分の意見をもつことは重要だからだ。
また「あとがき」に多少、私の意見を述べてみようと思う。
テーマ「幸せ」
今回の講義のテーマは「幸せ」
幸福についてだ。
ある種、最近流行りの新興宗教の講演会のような題目だが、そこは気にしないでほしい。
私は新興宗教にはまるくらいなら、イスラム教徒になるほうがいい、と考えているような人間である。
(もちろんイスラム教を悪く言うわけではない)
さて、これから、3回に渡って、「幸福」について考えようと思う。
人が生きていく上で、これ以上に重要なことがあるだろうか。
人間は、ほぼ例外なく、幸福を追い求めている。
日々を楽しく生きることを考えている。
それはきっと間違っていない。
脳科学者の茂木健一郎が言うように、ほとんどの人間が「快楽主義者」であることは間違いないだろう。
「楽しむ」ことについて
さて。
まず、第一回目の講義では「楽しむ」ということについて、考えてみよう。
最初に、訊いてみたいと思う。
君たちは、日々の生活を楽しんでいるかな?
仕事やプライベートをしっかり楽しめているかな?
これは非常に重要な問題だ。
この問いで、その人が今、幸福であるかどうか分かる。
日々を楽しめている人間は、ある種、幸福だと思う。
それは間違いないだろう。
問題は、楽しめていない人間だ。
なぜ楽しめないのだろうか。
何故だと思う?
考えてみてくれ。
物欲が満たされていないからだろうか。
しかし、今の日本は世界的に見ても非常に豊かだ。
おそらくこの記事を読んでいる人間の多くは日本人であると思うが、どうであろう。
日本は貧しいか。
金銭の問題だろうか。
不景気のせいで、生活は楽しくないのだろうか。
お金で幸せは買えるのか
ここでひとつの重要な問題が浮かび上がってくる。
それは
「お金で人は幸せになれるのか」
という問題だ。
君たちはどう思うだろうか。
お金で幸せを買えると思うかな?
確かに、お金があれば、娯楽を手に入れることができる。
お金があれば、小説を買うことができる。
映画を見に行くこともできる。
なるほど、確かにお金は幸せとまったく無関係ではなさそうだ。
では逆方向から考えてみよう。
お金で幸せは買えない、という理由にはどんなものがあるか。
どんなものがある?
買える、と考えている人も考えてみてくれ。
どんなものがあるだろうか。
最低限度の生活を送るために必要な金銭については、置いておこう。
それとは別に、余分な金銭についてだ。
おそらく、金銭では幸せを買うことができない、と考える多くの人は
「幸せとは、精神的なもので、内面の豊かさから生まれる。外部からもたらされるものではなく、ようは気の持ちようである」
こんなふうに考えているのではないだろうか。
なるほど、そうかも知れない。
例えば、公園の木を見て嬉しくなる人と、そうでない人について考えてみればいい。
木を見て嬉しくなる人には、内面的豊かさがある。
だから幸福になれる。
そういう理屈だ。
二つの考えをまとめてみよう。
お金があれば、サッカーの試合を見に行くことができる。
サッカーの試合を見れば、楽しくなる。
つまり、お金で「楽しみ」買うわけだ。
これが「幸せは金で買える」理屈。
では、サッカーの試合を見なければ楽しくないのか。
サッカーの試合を見て楽しめない人間はいないのか。
サッカーの試合を見なくても楽しめるのではないか。
これが「幸せは金で買えるものではない」という理屈だ。
難しいから、整理しよう。
つまり、「買えない」派が言いたいのは、サッカーの試合を楽しめるのはもともと、「サッカーを見れば楽しめる」という内面的豊かさがあるからであり、その内面的豊かさがなければ、お金を払ってサッカーの試合を見ても楽しくはないだろう、ということだ。
さらに言えば、お金を払ってサッカーの試合を見なくても、内面的豊かさがあれば、道を歩いているだけでも、幸福を感じることはできる、そういうことだ。
「内面的豊かさ」とは
ここまで、述べてみると、「幸せはお金では買えない」という考えがまるで答えであるかのようだ。
しかし、そこで反論してみよう。
内面的豊かさは、どこから来るのか、どうやって生まれるのか。
これについて考える前に「内面的豊かさ」とはなんだろうか、そのことについて考えてみよう。
君たちにも考えてほしい。
感受性だろうか。
厳密には違うかもしれない。
「心の成熟度」
こうのように表現することができるかも知れない。
例えば、このように考えてみよう。
サッカーの試合を楽しめない人間がいるとする。
なぜ楽しめないのか。
何故だと思う?
その人の心が、考えが「サッカーの面白さ」というものを許容できていないからだ。
もっと分かりやすくしてみよう。
恋愛についてだ。
君は独り身だとする。恋人もいない。
クリスマスイブに、君は都合あって駅前を歩いている。
すると、目に入ってくるのは、手をつなぎ笑顔で歩くカップルたちだ。
君はそんなカップルを見て、どう感じるか。
これが「心の成熟度」であり「内面的豊かさ」だ。
カップルを見て、楽しそうだな、幸せそうだな、と心穏やかに思える人は、「内面的豊かさ」を持っている人だと言える。
逆に、当てつけかよ、調子に乗りやがって、と腹を立ててプンスカ怒って家に帰る人間は、「内面的豊かさ」が足りない、と言える。
どちらの人間が幸福だろうか。
それが「内面的豊かさ」の発想だ。
「内面的豊かさ」はどうやって作られるのか
「内面的豊かさ」はお金で買えるのか
さてここで、問題に戻る。
君たちは、どう思うかな?
果たして内面的豊かさはどこから生まれてくるものなのだろうか。
たぶんに「教育」から発生してくるものではないのか。
生まれたときから、今日にいたるまでのさまざまな教育や学習、文化が、自分の人格を形成し内面的豊かさというものを育む。
読書や観察、議論が内面的豊かさの成長につながる。
なるほど、またここで問題が発生する。
内面的豊かさはお金で買えるか、買えないのか。
君はどう考える?
内面的豊かさはお金で買えるものなのか。
例えば、本が分かりやすい例になるだろう。
哲学書や思想に関する本を買うにはお金が必要だ。
つまり、内面的豊かさを手に入れるための教育を受けるには、学問をするにはお金が必要だ、と考えることができる。
しかし、本を読みたければ市立図書館を利用すればいい、そんな意見も聞こえてくる。
では大学はどうだろう。
大学へ通うにはお金がいる。
奨学金制度もあるが、日本の場合、その多くは返済の義務がある。
利子まで取られる。
つまり、高等教育を受けるためにお金が必要ではないか、という話だ。
さらに良い大学に入るためには勉強しなくてはいけない。
勉強するにはノートがいる。
ノートを買うにはお金がいる。
その他、お金があれば良い教材を揃えることができる。
事実問題として、東京大学合格者の保護者の年収は、一般の家庭のそれを上回っている。
そういう事実がある。
つまり、お金で質の良い教育を受けることができる。
お金で、内面的豊かさを得ることができる。
こういう理屈がある。
さて、この考えに対して、君たちはどう反論する?
やはり「幸せはお金で買える」ものであるのだろうか。
真っ先に思いつく反論は
「大学に行かずとも、内面的豊かさを磨くことはできる」
というものだろうか。
例えば、先に市立図書館で本を読めばいい、という意見があった。
それを利用すれば、わざわざ大学に行かずとも、内面的豊かさを手に入れることができる。
あるいは小学校、中学校の義務教育機関は学費が不要だ。
そこの学問で形成されればいいし、またそうあるべきだ。
学生と上手く議論し、内面的豊かさの成長を促すことができる教師として優秀な人間がその学校にいるかは別にして、手段として、それが考えられる。
このような反論になるのだろうか。
しかし、どう考えても、今の義務教育機関は、内面的豊かさを育むような教育をしているとは考えられない。
内面的豊かさを手に入れる学生は、学校教育とは関係無しに自発的な学習から、それを学んでいるように思える。
一方で、これは大学には当てはまらないのだろうか。
確かに講義の内容次第では、義務教育機関より刺激的な学習が出来るかもしれない。
だが、その講義が自身にとって刺激的であるかどうかは、そのときすでに形成されている内面的豊かさによるのではないか。
つまり、大学以外の場での内面的豊かさの形成、というのは事実上存在する、と考えられる。
考えることが「内面的豊かさ」を育てる
先にも述べたが、内面的豊かさを形成するのは、読書や議論ではないか、と考えられる。
しかしなぜ、読書や議論が内面的豊かさにつながるのだろうか。
「内面的豊かさ」はその思考法と大きく関係していることは察することができるだろう。
柔軟かつ冷静で穏やかな思考が、「内面的豊かさ」と言うこともできる。
これは、数多くの読書と、日常的な会話や議論を通じて培うことが可能だろう。
よく考えてみれば、世の中にはこの「内面的豊かさ」を備えた人間はそう少なくはない。
そして、彼らの多くは、高学歴であるのだろうか。
どう思う?
学歴というよりも、経験や見聞、知識から「生きる」ということよく考えているような人が多いのではないだろうか。
逆から考えてみよう。
「内面的豊かさ」のない人間は、どんな人物だろう。
想像してみて。
まず、その人の考え方は柔軟だろうか。
その人の考え方は、偏見や感覚的で、また感情的ではないか。
その人に、多角的視点から物事を見つめる力はあるのだろうか。
世の中には論理的に物事を考えられるが、感情的な人間もいる。
こういっては何だが、そういう人間は自分を利口だと思っている場合が多い。
そうなると多角的に物事を見ようとしない。
自分のものさし一本で、万物の尺度が測れると信じているのだろう。
これは私の極めて個人的な意見であるが、高校教師にはそういう人間が多い。
その分野については、彼らは専門家、と言えるかもしれない。
そのことからの自負心があるのかもしれない。
そしてその自負心は極めて感情的なものだ。
冷静に考えられる人間は、向上する余地に気づく。
多角的に物事が見えるからだ。
だから向上しようとする。向上心だ。
この向上心もまた「内面的豊かさ」と言えるかもしれない。
つまり、「考える」ということが、「内面的豊かさ」を磨く上で極めて重要だ、と考えられるのではないか。
とにかく考える人間は、分析をするようになる。
これが冷静沈着な、多角的視点や物事を柔軟に捉えるための基盤になる。
あるひとつの結論
ここで、あるひとつの結論が導かれたように思う。
私的見解によるところもあるが、ご容赦願いたい、ということは冒頭で述べた。
まず、「楽しむ」ということについて考えた。
「楽しむ」ことと「物欲」の関係。
「楽しむ」ためには、たぶんに「内面的豊かさ」が必要。
「内面的豊かさ」は「考える」ことで育むことができ、金銭は必要にならない。
ただし、金銭も発想次第では、幸せのために用いることができる。
次回予告
次回は「楽しむ」ことについて、別の問題を考えたいと思う。
初めに、君たちに問うたことを思い出してほしい。
「君たちは、日々の生活を楽しんでいるか?」
そんなことを訊いた。
そして今回は、物欲や金銭について、また「内面的豊かさ」について考えた。
次回はもうひとつの原因
「自分の夢や、やりたいことをやれているのか」
ということ、つまり自己実現について、考えていこうと思う。
リンク「第2回」
今日のテーマは「自己実現」
さて、前回は、「幸せ」と物欲、金銭の関係を考え、「内面的豊かさ」をキーワードに講義をした。
今回は、「自己実現」をキーワードに講義しようと思う。
君たちは今を楽しんでいるか?
そういう質問を前回の講義でした。
どうだろう、楽しめているだろうか。
前回はその原因を金銭面、物欲から考えた。
それ以外に考えられる原因には何があるだろうか。
やりたいことが、できているのかどうか。
このような精神的な満足度も関係があるかもしれない。
例えば、やりたくないことを無理やりにやらされている状態で、楽しくない。
そんな理由が考えられる。
そこで、やりたいことをやれているのか、つまり自己実現できているかどうかが、問題になってくる。
やりたいことをやれていて、満足できていれば、その人は日々を楽しめるのだろう。
精神的な余裕から、些細なことを楽しめるような内面的豊かさが生まれるかもしれない。
しかし、やりたいことをやれていても楽しくない、そういう人間も中にはいるかもしれない。
その原因には、自分が本当にやりたいことを見極められているかどうかが鍵になりそうだ。
順番に考えてみよう。
自己実現と幸福感の関係は
まずは、自己実現ができているかどうかについて考えてみることにしよう。
そもそも「自己実現」とは何かということを整理しておく。
単純に言ってしまえば、夢を叶えられているか、どうか。
そう言うこともできる。
例えば、家族を持ちたいと思った人は、家族を持てているかどうか。
ある会社に勤めたいと思った人は、その会社に勤められているのか。
それ以外にも様々な細かい事象が考えられる。
自己実現できていると、何がどうプラスなのだろうか。
何だと思う?
まずひとつ、満足感が得られる。
これは非常に重要なことだ。
満足感は幸福感に直結する感覚だからだ。
次に考えられるのはなんだろうか。
何があるかな?
「余裕」だ。
自己実現によって(それ以外にも要因はあるが)満足感や幸福感を得ている人間には、ある程度の「余裕」があるように思う。
余裕があれば、ものごとを俯瞰(ふかん)できる。
冷静になれる。
これは実に有益なことだ。
人に優しくする余裕があるのだから。
社会的にみても、人々がこのような満足感や幸福感を感じていることが重要であるようだ。
人がそれぞれに余裕を持っていて、それは自己実現だけでなく、労働条件やさまざまな部分から発生するものだと思うが、余裕を持っていて、周りの人に優しくすれば、社会は居心地がよくなる。
居心地がよくなれば、それは幸福感を感じる要因になる。
好循環だ。
例えば、今現在、国際競争力1位と言われているフィンランド。
この国の制度を学んでみると、なるほど、「余裕」を感じることのできる環境かもしれない。
フィンランドが抱える問題として、高い失業率があるが、それでも国民はそのことを楽観的にとらえているふしが、あるそうだ。
基本的に7時間半労働で、残業はしない。
残業手当がないからだ。
それでも、国際競争力1位だ。
余裕の与える影響は社会的に見ても、強そうである。
なぜ楽しめていないのか
やりたいことをやっているつもりだけど、イマイチ楽しくない。
そんな人も世の中にはいるだろう。
何が原因だろうか。
何だと思う?
冒頭でも述べたが、その原因のひとつとして、
「やりたいことを、分かっていない」
というものがあるだろう。
映画やドラマなどでよくある話かもしれない。
「自分が本当にやりたいことはなんだろう」
と煩悶するあれだ。
それが分からないうちは、なぜやりたいことをやってもしっかり楽しめないのだろうか。
なぜだ?
満足できていないからではないのか。
そう考えることができるだろう。
つまり、本当にやりたいこと、心の底からやりたいと思えることを結局はやれていないのだから、「満足できない」というものだ。
そういった飢餓感から生まれるのは、欲求と焦燥感、といったものがあるだろう。
それらが上手く作用し、「やりたいこと」を見つけられることもあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。
それはさておき、原因として、そんなことが考えられる。
余裕がないと、些細なことを楽しむ気持ちが生まれない。
人に厳しく当たってしまうかもしれない。
それは、ちょっと寂しいことだ。
あるひとつの結論
こんなところでひとつ、まとめてみよう。
幸福感を感じるには、余裕を感じているかどうか、が関係する。
幸福感や満足感を得るには、自己実現できているか、という要因がひとつ考えられる。
はじめに
今までの二回の講義では、できる限り客観的に「幸せ」について考えてみた。
今回は、私の個人的な意見を話してみようと思う。
ということはつまり、講義ではなく演説のようなものをするわけである。
享楽主義
まず、私がどう「生きる」ということを考えているか、話そう。
「とにかく、楽しむ」
これだ。
まあ、考えてみれば私は「享楽主義者」なのかもしれない。
楽しんでいなければ、生きている意味がない。
端的に言えば、それくらいに考えている。
じゃあ、楽しくなければ死んでもいいのか。
と問われれば、そういう話とは違う。
楽しめるように生きればいいのだ。
これは誰でもできると思う。
第二回目の講義でも述べたが、大切なのは「余裕」だ。
常に心に余裕を作ればいい。
俯瞰(ふかん)するよう努めればいい。
ネガティブとは
ここで注意すべき問題がある。
よく冷静沈着であることや客観的、俯瞰的なことをネガティブだと勘違いしている人間がいる。
これはまったくの間違いだ。
「世の中って結局こうじゃね?」
などと嘆いて、悲観的に考えている人間というのは、実はかなり感情的になっている。
気持ちが沈んでいる。
まず言っておこう。
状況をとらえる力がなければ、意図的にポジティブになることは難しい。
根っからポジティブな人間は気にする必要のない話かもしれない。
私自身はその実、かなりの心配性だ。
悲観的にものごとを見る癖があった。
それで、人生についてとにかく考えた。
状況をとらえるのなら、冷静にものごとを見つめるのが一番だ。
冷静に見つめれば、状況を理解しやすい。
状況を理解でき、冷静であれば、ある程度の精神的余裕が作れる。
まあ、状況にもよるかもしれないが、とにかく感情的でなければ、ネガティブは避けられる。
整理しよう。
つまり私が言いたいのは、感情的な人間はその実、余裕がない。
余裕を作るために、冷静になってみよう。
そんなことだ。
余裕について
では、余裕があると、具体的になにがどうプラスなのか、考えてみよう。
第一回の講義で私が出した問いを思い出してほしい。
クリスマスに独り身のあなたが、カップルを見たときの心情について、の問いだ。
余裕があれば、なんら動じることもない。
余裕がないと、癪に障るかもしれない。
ある意味では、第一回目の講義で用いたキーワード「内面的豊かさ」というのは、その人の精神的余裕と言えるのかも知れない。
とにかく私はその余裕というものを大切にしている。
常に余裕を胸に秘め、感情的にならないよう努めている。
穏やかに過ごす
さて、ここで疑問がひとつ浮かび上がる。
冷静沈着に生活して、人生が楽しめるのか、という疑問だ。
どう思うかな?
まず、個人的な話をしよう。
私は、一日々々を楽しんでいる。
なぜか。
そもそも、なぜ冷静でいることを重要視したのか。
余裕を作るためだ。
なぜ、余裕を作る必要があったのか。
日々を楽しむためだ。
「冷静」という言い方が悪いのかもしれない。
「穏やか」と言えばいいだろうか。
私は常に心穏やかに、過ごすことを努めている。
些細なことを楽しんだり、いろんなことを許したり、許容できるように精神を落ち着かせるよう、努力している。
だから、楽しい。
今を楽しむことについて
周りの人間が日々を楽しめているようであれば、いいな、と思う。
それがずっと続けばいいな、と思う。
とくに、恨めしく思ったり、調子にのりやがって、と腹が立ったりすることはなくなった。
よく、テレビ番組などで、若いタレントやアイドルが調子に乗っているのを見ると、無性に腹の立ってくることが、以前はあった。
「今は楽しいかもしれんが、あんたら将来のことしっかり考えとんのか」
と、詰問してやりたくなった。
それが、近頃はめっきりなくなった。
もちろん、将来のことを考えることは大事だ。
後先考えずに無鉄砲に生きることがいいことだとは思わない。
たった一度しかない人生を蔑ろにしていいわけがない。
しかし、それだけでなく、今を楽しんで生きるのも同じくらい大切なことではないか。
楽しそうな人を見ると、気分が良くなるようになった。
だいいち、その人に明日が来ない可能性だって、悲しいことだが、ある。
交通事故や、自然災害や、通り魔や、とにかく何らかの外部的影響で、死んでしまう、あるいは病気になってしまう、そういうことがあるかもしれない。
そう考えると、今を楽しむことの大切が分かる気がする。
楽しんでしまえ
結局、人は死ぬ。
普通は死ぬ。
私たちも、だんだんと年老いて、死んでいく。
必ず、死んでいく。
それを思うと、人を憎んだり、自分に関係のないことに怒ることがいかにくだらないか、考えさせられる。
「別にいいじゃないか、そんなむきなるようなことじゃねえや」
それでいいんじゃないのか?
周りの人が、幸せになっていくのも、いいことじゃないか。
楽しいじゃないか。
自分も楽しんじゃえばいいじゃないか。
全部、楽しんじゃえばいいじゃないか。
下らない議論は、笑い飛ばしてしまえばいいじゃないか。
むきなんかならなくてもいいじゃないか。
もしかすれば、人生は無意味かもしれない。
だからどうした。
それでも楽しんでいれば、楽しんだから、素晴らしいじゃないか。
みんなが楽しければ、それがいちばんいいじゃないか。
他人の幸せとか、願っちゃえばいいじゃないか。
その方が、楽しいじゃないか。
腹の立つ先生がいても、その人の幸せを願っちゃえばいいじゃないか。
せめて何かいい出会いでもあってあの性格が更生されますように、とか願っちゃえばいいじゃないか。
もしかしたら、その先生が幸せになれば、人当たりが良くなって、問題が改善されるかもしれない。
みんながみんなの幸せを願って、人に親切をすれば、実際に人は幸せに近づいていけるだろう。
そうなれば、心に余裕が生まれる。
さらに人に親切をすることができる。
これが、世界をもっとよくすることができる理屈じゃないのか。
その方が楽しいじゃないか。
自分が、楽しいじゃないか。
全部ひっくるめて楽しんでしまえ。
そう、私は思っている。
許容
私が常々思っていることを、紹介してみよう。
「人を理解することは、それほど重要ではない。
大切なのは、受け入れることだ」
世の中には理解しがたい人間というのがいる。
ひとりはいる。
しかし、それは別にむきなるようなことじゃないだろう。
問題なのは、その人を、自分が受け入れられるかどうか、許容できるかどうかだ。
そりゃ、そういう人も世の中にはいるさ。
そんなふうに納得してしまえばいい。
むきになったところで、楽しくはない。
あるひとつの結論
楽しめ。
全部、楽しめ。
そして、他の人の幸せも、願ってしまえ。
その方が楽しいだろう。
私も幸せ、あの人も幸せ。
素晴らしい。
みんなで楽しんでしまえ。
離婚していたのか、ただ別居していたのか、私自身はほとんどあったことがありませんが、通夜、葬儀に参加するため、学校を忌引きすることになりました。
幸福論を書いて、すぐのことだったので、「生きる」ということについて尚更、考えさせられました。
いまは待ち時間というのか、とくにすることのない時間ですので、今のうちに報告をば、しておきます。
人はいつ死ぬか分かりません。
今日、交通事故で死んでしまうかもしれない。
大地震が来て、死んでしまうかもしれない。
いつ死んでもいいように、覚悟を決めて、毎日を生きていかなくて、ならない。
そう、思いました。
覚悟ですよ。
残念。
いや、それよりも気になるチームが!
「ごはん」ですよ!
あれはいいね。
また聴きたい。
てか、割りと何度でも聴きたい。
そういうのは、歌うたい的には、大事なことだと思うけど。
まあ、優勝は無理だろうな、と思ってたけど(笑)
素晴らしかったよ、ごはん!
もうね、決勝でサンボマスター歌いますって言ったとき、
「おお!」
って興奮したもんね。
どうなるんだおい、楽しみだな、ってな具合で。
これぞ、まさしくファンタジスタですぞ。
やっぱりミュージックで素晴らしいよね。
人を救うのは、小説じゃなくて、音楽なんだよ。
たぶん。
ということで、何様だ、ということではありますが、チーム「ごはん」に陣内拓海特別賞をば!
(笑)
いや、本当によかったから、あれで終わりというのが、ちょっと寂しいのです。
また聴きたいねえ。
ついでに、陣内拓海の最近の音楽事情を、紹介してみようかな、と思います。
斉藤和義は毎日のように、というか毎日聴いてますね。
「なんか和義聴きてえ」
ってなるんですよね。
あと、DOES。
このバンドはずいぶん前から、聴いてましたが、最近、私の中でブーム再燃。
カラオケに友人と行ったときも、他の曲に比べ、DOESの方が若干ですが点数がいい。
まあ、私は基本的に音痴ですけど。
点数は平均50ですね。
さらに再燃してるのが、イエローモンキー。
母の持っているベストアルバムをば聴いちょります。
イエローモンキーいいよね。
イエローモンキーとスピッツは母の趣味で、CDが全部そろっているので、助かります。
そうそう、なんなのかよく分かりませんが、うちにイエローモンキーのミニカーがあります。
あとは、そうそう。
私は特に意図しているわけじゃないんですが、女性ボーカルの曲でぜんぜん聴かないんですよね。
ただ唯一聴いているのが Superfly ですね。
あれはロックですよ。
大好きです。
これも母の趣味でCD、全部そろってますね。
あと、これはCD持ってないんだけど、キャプテンストライダムなるバンド。
これもいいなあ、と。
面白いですよ。
あと、ときたま、チャーリー・パーカーを。
あれは何か、いいんですよね。
疾走というか、滑走というか、そんな響きの言葉が似合う感じのミュージックですよ。
こんなとこですかね。
とにかく「ごはん」最高です。
ファンタスティック。
最後にもしチーム「ごはん」の誰かがこの記事を読んだら、コメントとか拍手とか、メールを下さい!
めっちゃ嬉しいです!
私が多大な影響を受けた本です。

脳科学者、茂木健一郎の
「脳を活かす勉強法 奇跡の「強化学習」」
吉永賢一の
「東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法」
自己啓発、勉強法の本はたくさん読みましたが、いちばん影響を受けたのはこの2冊ですかね。
あとは安河内哲也の「できる人の勉強法」にも大きく影響を受けましたが、残念ながらあれは誰かにかしてしまい、ついに戻ってくることはありませんでした。
誰に貸したか、覚えてさえいれば(笑)
「脳を活かす・・・・・・」
の方は、勉強法をうんぬんというよりは、脳のしくみから、こういうやり方がいい、という概念的な話が印象に残っていますね。
このイメージをもとに勉強法を組み立てるのは、なかなか有益だと思いますよ。
「東大家庭教師・・・・・・」
は、逆に具体的なことが書かれています。
参考書の選び方から、問題集の取り組み方など、実に充実した本です。
とても参考になりますよ。
興味のある人はぜひ一度、書店で手にとって見てください。
「脳を活かす・・・・・・」
の方は確か、文庫でも出ているので、安く買えますよ。
そこで、今、私が読んでいる書籍の方を紹介してみようかと思います。

堀内都喜子さんの
「フィンランド 豊かさのメソッド」
ケンジ・ステファン・スズキさんの
「消費税25%で世界一幸せな国デンマークの暮らし」
この2冊です。
ケンジさんは察せられる通り、デンマークに国籍を変えられた方です。
古本屋でこの本を見つけ、購入しました。
今は「フィンランド 豊かさのメソッド」の方を読んでいますが、いやはや、目からうろこというか。
フィンランドは良い国ですよ。
本当に。
気候さえもっと安定していれば、移住したいくらいです。
気候さえもっとよければ。
やっぱり教師の質ってのは大事なんですよ。
向こう(フィンランド)は、教師になるのはそれはまたけっこう大変みたいです。
過程を一通り読んでみましたが、いや大変だ。
日本の教師って、けっこう
「やれるしやるかあ」
的な人が多いですよね。
特に工業高校なんかそうですけど。
社会経験のある先生が、仕事辞めて、教員免許あるし教師でもやるか、とそんなノリで。
だから、おかしいんですよ。
確かに技術力はあるかもしれない。
専門的知識をもっているかもしれない。
でも、それだけなんですよ。
「教師」としての力量が向こうの国(フィンランド)に比べて格段に落ちるんですよ。
よく授業を聞かないことを生徒が悪い、と一方的に決め付けている先生がいますが、僕に言わせればそんなの逃避であり、いい訳ですよ。
「良い先生」の授業はみんなちゃんと聞いてますよ。
僕だってそうですよ。
数学の授業とか、教え方の上手な先生が担当だったときは授業を熱心に聞いてましたけど、先生が変わって、実に教え方の悪い先生になってから、授業をろくすっぽ聞かずにひとり黙々と問題集を解いてました。
授業を聞かせるかどうかは生徒のやる気ではなくて、教師の力量なんですよ。
これを勘違いしないでいただきたい。
ちょっと熱く語ってしまいました。
身近な話なので、つい熱が入ってしまいます。
それ以外にも、フィンランドのシステムは優れていると思うし、感心させられる。
こういうことを学校で教えればいいのに、と思わずにはいられない。
そうそう。
フィンランドは国際競争力第1位と言われてますけど、なんと恐るべきことに夏休みは2ヵ月半。
社会人も!
学習到達度も世界第1位ですけど、夏休み2ヵ月半。
午後2時ごろ放課。
「ゆとり教育で、バカが増えた」
なんて考え無しのアホどもが言ってますけど、あれは嘘ですからね。
信じないで下さいよ。
フィンランドは今の日本よりも全然、授業時間は少ないですからね。
それでいて、学習到達度世界ナンバー1なんです。
ようは教育システムなんですよ。
いくら授業数増やしたってダメなもんはダメ。
だいたいなんで塾が必要なんだ、という話。
フィンランドには塾もなければ家庭教師もいませんよ。
それでいて世界ナンバー1。
社会人も2ヵ月半の夏休みは羨ましいな。
しかも、たしか強制なんですよね。
違う国だったかもしれませんが。
有休とかもたしか強制的に使い切らなきゃいけない。
企業から休んでくれ、と言われるらしい。
法で定められてるんですよね。
フィンランドかどうか忘れましたけど。
デンマークかな。
デンマークだって世界幸福度ランキング第1位ですからね。
教育、福祉、医療、これが原則無料。
そのかわり消費税25%。
でも上三つが無料なら、別にそれくらいなんてことないですよ。
これからは北欧の時代ですよ。
アメリカは自由を追い求めたのはいいですが、医療高いし、日本は教育費がかかりすぎるし。
イギリスは最近、学費を倍にしようとか政府が言って、暴動が起きましたよね。
これって日本のメディアは放送してるんですか?
イギリスの暴動をニュースでまったく見ませんけど。
日本のメディアって世界のニュースをぜんぜんやらないですよね。
身内ネタばかりで。
下らないゴシップに流されて、それで世界が救えるのか、日本国民の未来を豊かにできるのか、という話なんですよ。
いやすいません。
愚痴っぽくなってしまいました。
じゃあ今日はこれで失礼します。
ではでは
(さっきの記事のつづき。のつもり)
そういえば、面白いことがもう一つ。
僕が最近、NHKの白熱教室を見ている、という話を以前しましたけど、横浜市立大学の講義を放送していたとき、デンマークの話になったんですね。
そこで面白い話があったので紹介したいと思います。
というか、教育とかに関しての僕の話って、受け売りが多いので、注意をば。
自分の意見を持つって、大変だ。
いや、そんなことはいいんだ。
ええっと、そうそう。
デンマークの学校では試験がないんですよ。
それでいて、人口比当り、ノーベル賞受賞率世界ナンバー1。
これ凄くないですか。
上村教授の言ったまんまですけど、これは日本の教育を見直さなきゃいけないデータでしょ。
もうすげえ。
北欧はすげえ。
介護システムもそうだしさ。
すげえんだよ。
北欧の時代だ。
で、とりあえず日本は「グッズ減税・バッズ課税」をやろう。
やってみよう。
動き始めてんのか、どうか分かんないけど、これはやった方がいいでしょ。
あるひとつの試算では、九兆くらい税収があるんでしょ?
やってみりゃいいじゃん。
ことなかれ主義はもう古い。
現状維持じゃ、日本はダメになるよ。
茂木健一郎がなんかの本で言ってたじゃん。
今の日本は、明治維新のころの日本と世界くらい、差が開いている、ってさぁ。
なんでも挑まなきゃダメなんだよ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、だろうが。
リスク背負って、挑戦しろよ。
きっと、今の大学生や高校生、中学生なんかが大人になってから、世界的な問題、環境とかそういうものに対していろいろ奔走することになるだろう。
今のうちに、しっかり考え始めなきゃいけないんじゃないのか。
受験勉強も大事だけど、日本のことをもっと考える時間があってもいいんじゃないのか。
上村教授(横浜市立大学の講義をしてた教授)が言っていたこと。
「日本の教育はナンバーワン教育、デンマークはオンリーワン教育」
そこなんだよ。
ナンバーワンって同じジャンルの、マルチプレイヤー的な人材を何人も作ってどうすんだよ。
みんなが数学できて、みんなが物理できて、みんなが化学できて、どうすんだよ。
別にみんなができなくてもいいだろうが。
各分野に精通した、それぞれの人材を、もっと効率よくつくればいいだろうが。
デンマークはそれでノーベル賞とってんだよ。
おっと、すみません。
熱が入りすぎてしまいました。
デンマークの教育について、説明を聞くと、教育のシステムが、日本とはずいぶん違うみたいです。
デンマークでは社会全体を見渡すような、教育を。
さらに、自分たちの好きなことを勉強させる。
好きなことどんどんやりなさい。
そういう教育をするらしいです。
それはいいなあ、と思いましたよ。
そりゃ試験もないわな(笑)、と。
日本は
「みんなでこれやりましょう」
「あとでどれくらいできるようになったかテストしますからねー」
こういう教育です。
だから、勉強がテストのためにある、かのような形になってしまったんですよ。
確かに、みんなで、という形は日本の「和」という美しい文化の基本であるかもしれませんが、もっと大切なものがあるんじゃないかな、と感じます。
「和」は大切です。
それはそうです。
ただ、教育のシステムまで、そうしなくても「和」は壊れたりしない強い文化じゃないのか、とも思います。
そんなに「和」はへなちょこじゃないぞ、と思います。
ただ、教育というのは、また上村教授の引用になりますが、人の内にあるものを引き出す、というものらしい。
そうなると、外部からあれやれこれやれ、と言うのは、教育ではなく、むしろ労働ではないのか。
作業ではないのか。
はたしてそれは本当に「教育」なのか、という話です。
デンマークは試験がないんだって、という話を親父にしたら、こんなことを言ってきました。
「でも、試験なくしたら勉強しない奴とか出てくるじゃん」
なるほど、これが日本の教育の問題点に違いない。
先にも述べましたけど、日本は「テストのために」勉強する、という仕組みになってしまっています。
だから、勉強は楽しくないし、やりたくなくなる。
概念が捻じ曲がってしまっているんです。
本来、勉強というのはもっと楽しいし、面白いものです。
たとえば、プラモデルを作るのが好きな人は、その技術を学んでいくのは楽しいでしょう。
サッカーが好きな人が、そのテクニックを学ぶのは、きっと面白いでしょう。
勉強というのは本来、そういう楽しいものです。
そのような感覚を、日本の教育は奪ってしまっているんです。
もちろん、学校の勉強を楽しむことはできます。
しかし、それは精神的教育格差を生むようなシステムではありませんか?
デンマークのようにやりたいことをやらせる教育のよさはなんでしょう。
実際のところ、具体的にはどういう教育をしているのか、まだ私はよく知りませんが、考えてみました。
例えば、昆虫が好きな人がいたとします。
その人は、昆虫の生態や、仕組みなど、昆虫についての知識を広めていくでしょう。
その過程で、自ら学んでいくことを、きっと楽しく感じることができていると思います。
つまり勉強が楽しめているわけです。
そういう感覚を味わえるとどうなるのか。
勉強することが苦ではなくなるわけです。
これは実に有益なことではありませんか。
だから、次々追求していく。
探求していく。
結果、ノーベル賞を受賞するにいたる。
昆虫以外に、わかりやすいのは「車」でしょうか。
車に興味をもった生徒がいれば、車について勉強させれば良い。
車が動く仕組みを学び、エンジンの仕組みを学び、将来的に技術者になって自動車産業を発展させる人材になるかもしれない。
日本の教育は、そういうシステムとは別のところにあります。
もちろん、数学はありとあらゆる場面で活躍してはいますけど、実際にそれを考えて運用しようと取り組む学者、技術者は全国民ではない。
全国民が、それを学ぶ必要はない。
それに、日本の教育で、僕自身はもっと世界のことを勉強してもいいんじゃないかと思う。
こういう組織があるよ、とかだけではなく、この国の教育システム。
問題点。
日本って仕組みとか制度だけ教えて、完結している気がする。
そこから問題点を見つけて、その問題点による影響や、解決策について、まったくと言っていいほど、議論しない。
つまり、学生にとってそれは考える必要のない問題となってしまう。
選挙権もないし。
それなのに
「最近の若者は」
なんてよく言えたもんだ、と僕は思う(笑)
知識を詰め込めば、世界はよくなるのか。
長くなってしまったので、この辺で切り上げるとしよう。
陣内拓海です。
今週も始まりました「真夜中のミッドナイト」!(←サンドイッチマンのパクリ)
今日はちょっと、朝にね、登校中にふと思ったことを話してみようかな、と思いますよ。
世界を救いたい、変えたい、と思っている高校生はどれくらいいんでしょうかね。
高校生なんてね、まだ若いですから、それくらいの大きなことを考えても許されるんじゃないかな、と思っているんですけど、あんまりそういう話は聞きませんよね。
ま、僕も高校生ですけど。
いまどきの流行なんですね、たぶん。
そういう青臭いことを考えるのはださいからやめようぜ、的な。
いやはや、そういう発想すら青臭く感じますけど。
あと、みなさんけっこう自分のことに必死ですよね。
まあ、若者に限らず、ですけど。
世界のことを考えている余裕がないんでしょうね。
でも、テレビゲームをやってる時間があったら、日本の未来とか、考えられそうですけどね。
そういう架空というか空想上でいろいろ考えるのって、けっこう楽しいと思うんですけど。
今はセンター試験直前ですね。
こんなね、受験勉強を必死でやらなきゃいけないような、制度が悪い。
ある意味、でかいチャンスではあるけど、うーん。
なんか、間違っているような気がする。
違和感がある。
だって受験勉強で、世界が救えるのかよ、って話なわけで。
あとあれですよ。
諦観です。
「俺たちが何したって無駄なんだよ」
みたいな考えをしている人も、けっこういますね。
これに関しては本当に、笑わせるな、って感じですよ。
何を甘えたこと言ってるんですか。
たかだか十何年生きたくらいで、なに人生の全てを悟ったかのような気になってんだ、って話ですよ。
それも十分、滑稽だと思うよー!
あー、そうそう。
最近、思っていることがあってですね。
ラジオやりたいな、と。
昔ね、むかーしむかし、今は昔、そういうことを友達とやろうとしてたというか、やったというか、結局、うやむやになったというか、そういうことがありましたけど。
ラジオやりたいんだよなー。
面白そうじゃん。
聴くのも好きだけど、どちらかといえば、僕は、しゃべりてえ。
知る人ぞ知る話ですけど、僕はかなり、おしゃべりが大好きです。
人としゃべるの大好きです。
もうね、状況が許せば、永遠に喋りつづけられますよ。
テーマとかも際限なくね。
むしろテーマに添えないかもしれない。
脱線しかできないね。
ダニー・タナーみたいな感じで、とにかくよくしゃべりますよ、わたくしは。
いやー、しゃべりたい。
別にラジオじゃなくてもいいや。
トークしたい。
最上級の娯楽でしょ、トーク、おしゃべりって。
ゲームなんかするより、絶対に楽しい。
あんなに面白い娯楽ってや、他にねーべ。
ゲームなんかいらねえ!
そんげんのぶちゃってしめえ。
(長岡弁;そんなものは捨ててしまえ)
だからか、メールはもどかしくて、ちょっと苦手なんだよね。
指でいちいち文章作ってるのに、反応がすぐにくるわけじゃないし、あれはやっぱりコミュニケーションツールではなくて、ただの伝達用のサービスでしかないんだよ、たぶん。
まあ、パソコンでのチャットはまだ、おしゃべり的要素を含んでいると思うけど。
まあ、結局、今回の記事は、うだうだな感じで、方向性もはっきりしない感じで、べらべらしゃべっているようなつもりでやってみました。
以上、陣内拓海の「真夜中のミッドナイト」でした!
――「真夜中の真夜中」ってなんだよ!
めっちゃ面白いですよ。
なんか、衝撃的でもあって。
これはもう全国民に、読んでほしいですね。
陣内拓海推薦! とこっそり帯でもつけて。

「おカネで世界を変える30の方法」
すげえ本ですよ。
こういう本をもっと宣伝すればいいのに。
「KAGEROU」とかじゃなくてさ。
みなさん、書店に行ったさいは、ぜひ! チェックしてください。
買わないまでも、目次だけでも、読んでみてください!
衝撃走る! ですよ。
この前、幸せについてお金がどうとかって書きましたけど、僕個人の意見としては、社会を良くするにはやっぱりお金って大事だと思います。
もちろん、意志も大切だけど、お金が軍事とか社会悪とかを制御するのに有効な手段だと思います。
学校の無償化もお金がいるし、年金とかもそうだし、お金の仕組みっていうのは、重要でしょう。
どうやれば、そういうシステムを改善できるんだろうか。
難しい問題です。
まだテストまで2週間あるけど、授業の方をぜんぜん聞いてないから、今のうちからちょくちょくやっておかないと、直前にとんでもない悲劇がまっている!
あと、卒業時のささやかな文集のために原稿用紙2枚でなにか、書かなくては。
800字て、すくな!
タイトルは「或る阿呆の一生」だな。
うん。
――パクりじゃん!
って先生に言われましたけど。
何がいいかな。
「フィンランドにおける教育の概念について」
とか言って書いたら、何か凄そうだけど(笑)
なんかいい話あるかなー。
特別寄稿とか、二年のときとか、けっこう書いちゃってるからなー。
今さら何を書けばいいんだ。
まじに「フィンランドに~」を書いちゃおうかな。
けっこう冗談みたいな感じで。
うーん。
悩みどころだ。
でも、締め切りは金曜までだし、時間がないな。
まあ、自分で書こうとすると得てしてうまくいかないものですが、人の文章を読むとき、かなり気になってしまいます。
まあ、人それぞれに好みはあるでしょうけど、私が好きな文章は、伊坂幸太郎さんと打海文三さんの文章。
伊坂作品の文章は前々から、好きでその雰囲気とか、流れとか、好きですね。
軽快で、ノリのいい感じが。はい。
雰囲気で言うと、最近、本多孝好さんの小説も読んだんですけど、すごくよかったですね。
文章とか雰囲気とか、心地良かったです。
で、僕がびっくりしたのが打海文三さんの文章です。
すごいですよ、この作家の文章は。
内容関係なしに、文章だけで小説が読めちゃいます。
もちろん、内容もすごいですけど、ホントに文章がいい。
大好きです。
ということは、と若干予測できてしまいますが、そう、私はライトノベルの文章が苦手です。
あの書き方や構成が堪えられません。
もちろん、何冊か読みましたよ。
その上で、やっぱり無理だ、と(笑)
やっぱり小説って言うのは文章で表現する分野、ジャンルじゃないですか。
漫画なら絵図だし、音楽なら音だし。
その小説の核となる文章が、荒い。
なんか、手を抜いている、妥協しているようにしか思えない。
「話」を書くことだけしか、考えていないんじゃないか、と思えるんですよ。
小説家なら文章にこだわれよ。
って思いますね。
まあライトノベルに限らず、そういう文章の作家はいますけどね。
あとは小説家たるもの小説でしか表現できない、小説にしかできないようなことを探求していくべきだ、と感じてるんですよ。
例えば、この前ですけど、僕が「高校生の小説日記。」で公開した小説「名探偵はサンタクロース」のなかのある描写です。
不良にからまれているときに、こういう描写があるんですよ。
――煙草くさい。
これはけっこう気に入ってます。
これは小説だからこその描写じゃありませんかね。
例えば映画とかドラマで「煙草くさい」をどう表現しますか。
顔を歪めるとか、そんな方法しかないでしょ。
それだって100パーセント伝わるものじゃありませんし。
こういう小説だからこそ表現できることってけっこうあるんじゃないかな、と思っていて、そういうことにこだわりを持つべきじゃないかな、と思います。
その考えから、僕はあの水嶋ヒロの「KAGEROU」ですか?
にはちょっと批判的です。
彼は確かなにかのインタビューで
「良い映画を目指した」
とかそんなことを言いましたよね。
これですよ。
小説家のくせに映画のこと考えてんじゃねえよ。
だったらはじめから脚本でも書けよ。
そう思いました。
その発言で、僕は本当にがっかりしました。
それまではね、別に、すげえな、と思っただけですけどね。
ちょっとそれは小説家として、間違った発想じゃないの?
と思います。
もっと「小説家」としての誇りをもってほしかった。
さらに言えば、その「映画」を意識したせいなのか、文章をなめているのか、けっこう文章が雑でした。
俺と同レベルか、もっと酷いんじゃねえの、と文章にこだわりのある僕としては思いましたね。
まあ、岡目八目、人のことってのはけっこう分かるものなんですよ。
そうそう。
言い訳になるか分かりませんけど(笑)
僕はネット上で公開している小説よりも、賞に応募したりしている小説のほうが、かなりこだわっているので、はい。
ネットで公開しているやつは、けっこうやっつけですね(笑)
コミュニティで締め切りとかありまして、やばい、みたいな。
賞のは、入選すれば、いろいろ良いことがありますんで、力は入りますね。
なんどもなんども推敲しますし。
公開している小説は、推敲してないですね。
(笑)
まあ、その分、実力というかそういう部分が分かるかもしれません。
力を入れてないぶん、筆力が試されるという。
とにかく、文章にこだわりのある陣内でしたー。
毎日残業し、さらに仕事をうちに持ってかえる。
こんな生活いやだ!
学校辞めたい。
しかし、あともう少しの辛抱。
いや、課題研究がいやなわけではない。
その顧問がたまらなく嫌なのだ。
ああ言ったのにこう言う。
まるで器が狭量の、会社のダメ上司みたいじゃないか。
「これなんでこうしたの! おかしいでしょ!」
「先生がこうしろって言ったんじゃないですか」
「なに言ってるんですか。そんなこと言いませんよ。早くやり直してください」
今日、私の班にいるおっとりした、優しい感じの成績も優秀な真面目な友人が爆発してしまった。
そんな心優しい学生をもキレさせるような顧問だ。
ある先生にその愚痴を言ったら、どうやら前々からそういうことは散々言われているらしい。
教師の間でも、そうらしい。
「聞き耳を持たないんですよ」
「そうだと思うよ。先生方のときもそうだもん」
こんな教師ダメだろ。
教員免許を剥奪してくれ。
あともう少しの辛抱だ。
あれだけは受け入れ不可能。
そこでサンボマスターのアルバムを試聴したんですけど、めちゃくちゃいいじゃないか!!
こんな私好みのミュージックをなぜ今まで聴いていなかったんだ。
ロックですけど、もはやパンクじゃないのか。
パンクロックでしょ、これは。
もうメロディといい、歌詞といい、歌い方といい、もう最高。
大好き。
結局、アルバム5枚借りてきました。
いやー、ついね。
もうこれはちゃんと聴こう。
これから聴いていこう。
と思ったので。
湘南之風の「爆音男」も試聴して、それもすごくよかったんですけど、サンボマスターの方が私的にヒットでした。
いやね、もうね、たまんないです。
ロックはいいねえ。
後半の「これがいいたい」を読んでくれればいいです。
「怒りは敵と思え」
ということわざがあります。
私もそれには全く同感で、怒ったところで幸せになることはない、と思ってはいますが、それでもやはり怒らずにはいられないことというのが、世の中にはあるようです。
課題研究の先生です。
ひどい教師です。
一言で言ってみれば
「ああ言ったのに、こう言う」
先生です。
ああしろこうしろと言ってきたので、仕方なくその通りに作業すると
「なんでこれやってんだて」
「え、先生がやれっていったんで」
「何言ってんだ。俺、そんなこといわねえよ」
と言ってくる先生です。
頭も悪いらしく、理解力のなさがはっきりと伺えます。
「インターネットにパソコンが繋がらないのは「FireFox」(インターネットに接続するブラウザの一種)が入ってるからだ」
とわけの分からないことを主張。
「「Internet Explorer」(インターネットに接続するブラウザの一種)とバッティングしてんじゃねえの?」
要するに「IE」と「FireFox」の相性が悪いんだ、だからインターネットに繋がらないんだ、という主張をしてきた。
言っておくが、私のこのパソコンも「IE」と「FireFox」を併用しているが、何の問題もない。
それを私は説明したが、聞かず
「どっちも消せ」
「アンインストールすればいいんですか?」
「早くしろよ」
ブラウザを消すわけですから、当然インターネットに繋がらなくなるわけです。
それを言うと
「どうせつながらねえんだからいいんだよ」
と返してきました。
なので仕方なくアンインストールしたら
「インターネットにつなげねえじゃねえか」
と怒られました。
また研究発表に使うパワーポイントを私が作らされたのですが、その先生がチェックを入れてきて、あれこれと直していくわけです。
ただ、直している、というよりは荒らしている、という感じ。
文章が繋がらなくなっているし、全体も見ずにぐちゃぐちゃいじくっていくから、流れがわけの分からないことになってしまう。
しかし、残念ながら翌日発表のため直すことはできない。
また研究発表の場を勘違いしているようでもある。
あれは企業のプレゼンテーションではなく、
・私たちはこういうことをやろうと思って研究を始めました。
・こういうことがありました。
・こうなりました。
という、言わば報告会のようなものである。
それを
「まだできていない部分は、書かなくていい」
と主張してくる。
それは完全に趣旨を誤っている。
こういうのもどうかと思うが、あの先生より私のほうが、格段に文章力は上だ。
そう思えるほど、変な、もはや成立していない日本語を自信満々に書き散らしていく。
バランス感覚も明らかにおかしい。
文字がどんどん読みにくくなっていき、わかりにくくなる。
これはあくまで俺たちの研究だ。
生徒たちに任せればいいものを、いちいち干渉しすぎなのだ。
それでよくなるならまだしも、ただの「荒らし」になっているのだから、勘弁していただきたい。
本当に、本気で。
そんなにやりたいなら自分で勝手にやってくれ。
確かにその先生の好きなことではある。
ただ、分からないことをきけば
「俺はしらねえよ」
である。
自分の趣味を課題研究にしてんじゃねえよ。
こっちは全自動掃除ロボットの研究を犠牲にして、無理やりやらされてんのに。
他の班は自分の好きなことやらせてもらってる分、納得できるだろうが。
すでに色んな人がやっていることを、私たちの研究は真似ているだけである。
そのくせ私たちには無断で、私たちの研究予算を使って、外国の製品を輸入してきて(五万とかする機器)、
「なんとかしてください」
と押し付けてくるのだ。
しかも説明書もない。
まず私たちはそれが一体なんであるのか調べるところから始めなければいけない。
インターネットで検索しても、英語のページしか出てこない。
工業は英語の授業なんてろくにねえんだよ。
だから困って、
「これどうやって接続するんですか?」
とか訊いても
「俺はしらねえよ」
だからね。
頭が本当におかしい。
更年期障害なんじゃないの?
と本気で思うくらい頭がおかしいです。
〇これがいいたい
私は上記したような人間には絶対になりたくないと思ってます。
まさに「反面教師」ですよね。
問題はですよ。
「そのような「反面教師」のような人間が教師でいること」
これなんですよ。
学力低下がどうだとか、若者の活字離れがどうだとか。
そういう話も教育では大事かもしれませんが、今の日本で私が最も問題だと思うのはこの教師の質の低さです。
そこが、この国の教育のいちばんの問題点ではないのか。
そう思うんです。
フィンランドは学習到達度世界第1位でしたね。
夏休みは2ヵ月半。
そのかわり、教師の質はめちゃくちゃいいですよ。
本当に選び抜かれた人が教師をやってます。
確かに学校数は少ないかもしれませんが、そもそも日本が多すぎる。
今の日本の教師と、フィンランドの教師。
比べるまでもない。
フィンランドは学力だけでなく「人間性」も評価されるんですよ。
日本は誰でも、それこそ「反面教師」のような人間でも教師になれてしまう。
これからの日本の未来を背負って立つ若者の教育者がそういう人間なのが「日本」なんです。
そういう教師たちが、日本の未来を壊しているんです。
そんな教師から学ぶことは何ですか?
知識だけなら本を読めばいくらでも手に入りますよ。
得るものなんか、ただのやるせなさだけですよ。
前向きな人は、経験をプラスにしていけるかもしれませんが、大半の人間はやる気をなくしていますよ。
学校教育のすることではない。
結論!
反面教師のような人間が教育者である時点でこの国の教育はおかしい。
私はけっこう厳しい意見をもっていて、そういう使い物にならない人材は容赦なく解雇していい、と思っています。
もちろん労働者にもさまざまな権利がありますが、企業にも利益を追求する権利があるはずです。
無益な労働者を解雇することは、企業として当然認められる権利ではないでしょうか。
まあ、多角的に見たら、いろいろな意見があると思いますが。
企業にとっていちばんのリスクが人件費です。
そこにいちばん金をかけるのだから、その質にこだわりたい、と考えるのは至極、自然なことです。
むしろ効率を下げるような人材は解雇されて、無情ではありますが、当然です。
「やりたいと思ってるけど、できないんだよね」
と言い訳する人がいますが、これは嘘です。
本気やろうと思えば、よほどのことでない限り、できます。
本気でやろうと思ってないから、できないんですよ。
そんな人材は、必要ないでしょ。
さらに、適当にやって、むしろ仕事に悪影響を与えているような社員をいつまでも解雇せずにいるのは、真面目な労働者に対して失礼であり、裏切り行為であるような気がするのです。
結局、わりを食うのは真面目な社員。
というのは不条理です。
その人たちのためにも、問題のある社員には、しっかりと対処しなくてはならない。
「面倒だから」
なんて言い訳は、企業の腐敗の一歩、以外のなにものでもないと思います。
最後に、そんなやる気のないダメ労働者に言いたいと思ったこと。
まあ、たかだか高校生の私が言ったところで、説得力はありませんが、でも気持ちは強いです。
「社会を舐めてんのか?
甘ったれてんじゃねえよ。
社会ってのはそんな甘かねえんだよ」
まあ、僕も社会なんてろくろく知らない高校生ですけど(笑)
もし解雇されたくなければ、真面目に働けばいい。
本気でちゃんと働けばいい。
それだけです。
真面目にやらない、やることできない社員が、真面目な社員と同じように給料をもらっている状況は、フェア―とは感じられないのです。
せめて、給与の減額くらいはあるべきです。
良いですよ。
ホントに良いです。
大好きです。
メロディっていいますか、あのリズムとか、流れとか、しっくりくるし。
詩も好きだ。
声とか歌い方も、私にとってはかなり心地いい。
もう、ツボですね。

初めて聴いたサンボマスターのアルバム。
「新し日本語ロックの道と光」
TSUTAYAで試聴したアルバムですね。
「これ来たぜ、おい。来ちゃったぜ。来ちゃったよ」
と興奮しました。
ま。
今、聴いてるのは違うアルバムですけど。

「サンボマスターは君に語りかける」
セカンドアルバムですね。
いいっすねえ。
よく、セカンドになるといきなり雰囲気変わっちゃうバンドとかいますけど(まあそういうバンドには違う良さがあるんでしょうけど)、一貫性があるというか、期待を裏切らない、私好みのアルバムです。
演奏が上手いか、と言われたら、それは分からないですけど、でも私は(色んな意味で)上手いと思いますし、このパンクな感じが、迫力が、心地いい。
ギターについては、正直、斉藤和義の方が好きですけど、このバンドにはこのバンド的な演奏の良さがあるんです。
色んな好みや価値観、意識がありますからね。
それが似ている、自分にとって心地良いミュージシャンに出会うのは、すごく素敵なことです。
これが最後のテストであることを望む。
このテストが終われば、自宅学習期間に入る。
しかし、課題研究のせいで、学校には変わらず通いつづけなければならない。
朝から、晩まで。
毎日をとにかく乗り切ろう。
やれることをとにかくやって、家に帰ってから、精神的に自分を癒して(最近はサンボマスターが)、充電しよう。
ここは堪えて、頑張るほか、あるまい。
今日、現代社会の最後の授業があった。
話があり、それが印象に残ったから、紹介しよう。
1つ目は
「本を読もう」
という話だった。
その話の中で、三木清の「人生論ノート」を紹介していた。
恥ずかしながら、初めて聞いた。
内容についての説明は特になかったが、かなり刺激を受けたそうだ。
しかも、50円で買ったらしい。
2つ目は、
「大人のマネ ×」
だ。
昔と違って、今は真似をするに値する大人が、残念だが、あまりいない、ということだった。
むしろ、君たち(俺たち)若い世代で、今の大人のダメさを断ち切らなければいけない、真似なんかしてはいけない、と話していた。
私も、残念ながら、同感である。
例外はあるが、正直尊敬できる大人がいない。
唯一、その現代社会の先生は、本当に良い人間だと思う。
教師として、さまざまな意味で優秀だと思う。
先生「私も含めて、今の大人なんか、全然ダメでしょ」
私の個人的な話になってしまうが、そういう意識は大切だと思う。
実際にダメかどうかより、意識の問題だ。
それに気がつく、意識するだけでずいぶん変わってくるものだ。
ソクラテスの言った「無知の知」だ。
最近の大人から、「向上心」を感じる機会がほぼない。
ダメな教師に限って、自分はできてる、と思っている節がある。
マーク・トウェインの名言がある。
「問題なのは何も知らないことではない。
何も知らないのに、
知っていると思い込んでいることだ」
さらに現代社会の先生はこんなことを言っていて、私は上から目線ながら「ほお」と感心した。
この人はすごい、と思った。
「毎日、最初だけ元気よく入ってくるのは、
『今日こそ完璧な授業をしよう』
って思ってるからなんだよね。
でもさ、授業やってると、ぽつぽつ寝たりする奴、出てくるよね。
そうするとさ、
『ああ、ダメだ。伝えたいことちゃんと伝えられてないんだ』
ってもうね、逃げ出したくなるんだよね」
どこにすごいと思ったのか。
以前から私は思っていることだが、授業を聞いてもらえないのは教師の力量が足りないだけだ、ということを先生も思っていた、ということだ。
僕はこの現代社会の先生の授業はとても好きで、いつも楽しみにしていたが、寝る生徒はいるらしい。
ここまで来ると、向上するのも大変、というくらいいい授業をしてくれているのだが、最後にアンケートを取っていた。
そのとき
「ダメなところを、書いてくださいね。そうしないと、成長できないんで。別に成績落としたりしないので、安心してください」
ということを言っていた。
すごいなあ、と思った。
私が、この教師はダメだ、と思う先生は、そんな意識がまるでない。
3つ目は
「命」
だった。
若いうちに死ぬな。
若いうちの死は犬死みたいなもんだろう。
とそんなことを言っていた気がする。
なかなか、衝撃的な話も聞くことができた。
私も、死についてはよく考えているから(自殺とか、そういう意味ではない)、いろいろ考えた。
良い人ほど、早く死ぬのだろうか。
とにかく良い話だった。
現代社会の先生に感謝。
(専門は政治経済らしい)
(ちなみに文芸部の顧問)