その歌の歌詞に
「誰もが誰よりも一番悩んでる」
ってあって、これに心を揺さぶられずにいられないのです。
みんな種類は違えど、色んな悩みを抱えていて、その人なり一生懸命考えていると思うんだ。
特別な奴なんていないんだ。
他人から見たらなんでもないようなことで真剣に悩んでいる人はたくさんいるんだ。
僕にだって、深刻な悩みはある。
悩んで悩んでそれでも「やるしかないじゃないか」となんとか立って歩いているんだ。
それをただの能天気だと思われちゃ、さすがの僕でも少し腹が立つってもんだ。
それはたぶん僕だけじゃなくて、他の人たちみんながそうなんじゃないかな、となんとなく思っている。
でも、それは別に悪いことじゃないよな、とも思う。
それは仕方のないことだ。
世の中を理解することは難しい。
必ず、視野に偏りが生まれる。
それは別におかしなことじゃない。
でも、みんな分かった気でいるように感じる。
自分は世の中を分かってる、と思い込んで、たぶんそれはほとんど無意識的にだと思うけれど、少し頑固になったり、意地になったりする。
僕も例外ではない。
自分ひとりじゃ世界を知ることはできない。
他人の言葉や、行為から、推し量っていくしかない。
社会に出たら嫌でも死ぬまで、あるいは定年まで働かなくてはならない。
大きな目で見ると、大仰な言葉を使えば、大局的に見ると、人生80年とすれば、学生生活のせいぜい20年そこいらなんて大したことない。
いや、その20年そこいらが人生の方向性を決めることはあるかもしれないが。
経験なんぞ、歳を取れば後から付いてくる。
それよりも学問をすべきだ、と私個人は思っている。
それは学校の勉強をコツコツやれ、というわけではない。
別に数学の問題集をせっせと解いたところで世界から貧困がなくなるわけじゃない。
いや、数学の問題集が無意味だとは思わないが。
学問とはもっと広く、深いものだ。
ものすごく抽象的な表現だが。
まあ、私自身もまだ考えている途中なのだ。
私だって学生という種類の人間だ。
私の何倍も生きたじいちゃんが言う。
「今のうちにいろいろ考えておけ」
私の言葉より、重いではないか。
ざっくり説明すると、自分が無力であると学習すると、(逃れられる環境でも)逃れようとする努力をしなくなる、というもの。
詳しくは調べてみてください。
主に家庭内暴力の被害者や拉致監禁の被害者にあるそうですが、広義で捉えると、一般人にも症状は表れているのではないか、と考えてみました。
つまり
「社会において、自分は無力だ」
ということを学習してしまい
「何をやっても無駄なんだ」
と社会を良くしようという努力をしなくなっているんじゃないか、ということ。
僕は、社会が変わろうが変わるまいがとにかく自分を信じて前進するのが大切なんだ、と考えたり、けっこう反抗的な部分がありますが、こういうところはまだ10代なので許していただきたいですね。
10代のくせに現実に憂いてどうするんだよ、みたいな(笑)
ということで
「学習性無力感」
って恐ろしいなという話でした。
悪の話とか素晴らしいと思うよ。
ストーリーは置いておいてさ。
そうなんだよ。
はっきり良い人とか、はっきり悪い人なんてのはいないし、一人一人の人間の中にあれこれいろんなものがごちゃごちゃ詰まっているんだよ。
たぶん。
あれだ、伊坂幸太郎の小説にあったように、誰だって白黒混在のねずみ色なんだ。
それを自分のことは棚にあげて、ああだこうだ人のことを言って何様だ、と思わずにはいられないわけですよ。
だから俺は人を批判するのが嫌いで、だから人の価値観の違いとか受け入れるのが大事だって言ってるわけですよ。
誰にだって悪い部分はあるしね。
「てめえは人のこと言えるのかよ」
「そいつはそんなに批判されなきゃいけねえのかよ」
と思っちゃうわけなんだよ。
別にいいじゃねえか。
(人の価値観とかを)受け入れようぜ、と思うんだよ。
まあ、とは言っても孔子じゃあるまいし、人間は神じゃないから、いろいろ難しいんだ。
でも、努めることに意味があるに違いない。
いやー、日々精進ですな。
僕が音楽をどう考えているのか、スタンスのようなものを話そうかな、と思います。
僕はその曲が良い曲であるのか、そうでないのかは、個人によって変わると思います。
人によって受ける印象、感覚、メッセージは変わると思うからです。
世間では名曲と言われている曲が、自分にはどうにもそうとは思えないこともあるでしょうし、逆に、世間的にはまるで評判になっていないもので、これは、という曲があるかもしれません。
(僕の場合、斉藤和義の「わすれもの」は音楽史に残るくらいの名曲じゃないか、と思うのですが)
・僕の音楽に対する考え、スタンス
そこで、ふと思ったのです。
「自分にとって、なにか『良い』ことがあれば、それで音楽はいいんじゃないのか」
ということです。
よく、(音楽に関わらず)作品のメッセージ性だとか、そんなものについて話している評論家を見ますが、馬鹿じゃないの? と僕はいつも思ってしまいます。
先に述べたように、人によって感じるものは違うし、作者の気持ち・メッセージを僕たちが受け取れるかなんて分かりません。
メッセージのこもった作品から、何も感じない人だって、世の中にはいるだろうし、逆に、まるでメッセージをこめていない作品から、何かを感じる人だっていると思います。
だから、世間的にどうだとか、その作者がどんな人物かなんて、曲とは関係ない。
音楽や作品になった時点で、それは作者から独立した作品になる。
そんなふうに感じます。
ただ、その作者の過去や考えなんかが、インタビュー記事とか、他の作品から感じ取り、その曲の印象を変えることはあると思います。
良くも悪くも。
・結論
いちばん大切なのは、
「自分がどう感じるか」
ということだけだ、ということです。
作者がどうだとか、世間的な評価がどうだとか、そういう情報も曲の印象を作ってしまいますが、結局のところで重要になるのは、自分がその曲を聴いたとき、何を思い感じるのか、ということだけでしかないと思うのです。
私はけっこう厳しい意見をもっていて、そういう使い物にならない人材は容赦なく解雇していい、と思っています。
もちろん労働者にもさまざまな権利がありますが、企業にも利益を追求する権利があるはずです。
無益な労働者を解雇することは、企業として当然認められる権利ではないでしょうか。
まあ、多角的に見たら、いろいろな意見があると思いますが。
企業にとっていちばんのリスクが人件費です。
そこにいちばん金をかけるのだから、その質にこだわりたい、と考えるのは至極、自然なことです。
むしろ効率を下げるような人材は解雇されて、無情ではありますが、当然です。
「やりたいと思ってるけど、できないんだよね」
と言い訳する人がいますが、これは嘘です。
本気やろうと思えば、よほどのことでない限り、できます。
本気でやろうと思ってないから、できないんですよ。
そんな人材は、必要ないでしょ。
さらに、適当にやって、むしろ仕事に悪影響を与えているような社員をいつまでも解雇せずにいるのは、真面目な労働者に対して失礼であり、裏切り行為であるような気がするのです。
結局、わりを食うのは真面目な社員。
というのは不条理です。
その人たちのためにも、問題のある社員には、しっかりと対処しなくてはならない。
「面倒だから」
なんて言い訳は、企業の腐敗の一歩、以外のなにものでもないと思います。
最後に、そんなやる気のないダメ労働者に言いたいと思ったこと。
まあ、たかだか高校生の私が言ったところで、説得力はありませんが、でも気持ちは強いです。
「社会を舐めてんのか?
甘ったれてんじゃねえよ。
社会ってのはそんな甘かねえんだよ」
まあ、僕も社会なんてろくろく知らない高校生ですけど(笑)
もし解雇されたくなければ、真面目に働けばいい。
本気でちゃんと働けばいい。
それだけです。
真面目にやらない、やることできない社員が、真面目な社員と同じように給料をもらっている状況は、フェア―とは感じられないのです。
せめて、給与の減額くらいはあるべきです。
後半の「これがいいたい」を読んでくれればいいです。
「怒りは敵と思え」
ということわざがあります。
私もそれには全く同感で、怒ったところで幸せになることはない、と思ってはいますが、それでもやはり怒らずにはいられないことというのが、世の中にはあるようです。
課題研究の先生です。
ひどい教師です。
一言で言ってみれば
「ああ言ったのに、こう言う」
先生です。
ああしろこうしろと言ってきたので、仕方なくその通りに作業すると
「なんでこれやってんだて」
「え、先生がやれっていったんで」
「何言ってんだ。俺、そんなこといわねえよ」
と言ってくる先生です。
頭も悪いらしく、理解力のなさがはっきりと伺えます。
「インターネットにパソコンが繋がらないのは「FireFox」(インターネットに接続するブラウザの一種)が入ってるからだ」
とわけの分からないことを主張。
「「Internet Explorer」(インターネットに接続するブラウザの一種)とバッティングしてんじゃねえの?」
要するに「IE」と「FireFox」の相性が悪いんだ、だからインターネットに繋がらないんだ、という主張をしてきた。
言っておくが、私のこのパソコンも「IE」と「FireFox」を併用しているが、何の問題もない。
それを私は説明したが、聞かず
「どっちも消せ」
「アンインストールすればいいんですか?」
「早くしろよ」
ブラウザを消すわけですから、当然インターネットに繋がらなくなるわけです。
それを言うと
「どうせつながらねえんだからいいんだよ」
と返してきました。
なので仕方なくアンインストールしたら
「インターネットにつなげねえじゃねえか」
と怒られました。
また研究発表に使うパワーポイントを私が作らされたのですが、その先生がチェックを入れてきて、あれこれと直していくわけです。
ただ、直している、というよりは荒らしている、という感じ。
文章が繋がらなくなっているし、全体も見ずにぐちゃぐちゃいじくっていくから、流れがわけの分からないことになってしまう。
しかし、残念ながら翌日発表のため直すことはできない。
また研究発表の場を勘違いしているようでもある。
あれは企業のプレゼンテーションではなく、
・私たちはこういうことをやろうと思って研究を始めました。
・こういうことがありました。
・こうなりました。
という、言わば報告会のようなものである。
それを
「まだできていない部分は、書かなくていい」
と主張してくる。
それは完全に趣旨を誤っている。
こういうのもどうかと思うが、あの先生より私のほうが、格段に文章力は上だ。
そう思えるほど、変な、もはや成立していない日本語を自信満々に書き散らしていく。
バランス感覚も明らかにおかしい。
文字がどんどん読みにくくなっていき、わかりにくくなる。
これはあくまで俺たちの研究だ。
生徒たちに任せればいいものを、いちいち干渉しすぎなのだ。
それでよくなるならまだしも、ただの「荒らし」になっているのだから、勘弁していただきたい。
本当に、本気で。
そんなにやりたいなら自分で勝手にやってくれ。
確かにその先生の好きなことではある。
ただ、分からないことをきけば
「俺はしらねえよ」
である。
自分の趣味を課題研究にしてんじゃねえよ。
こっちは全自動掃除ロボットの研究を犠牲にして、無理やりやらされてんのに。
他の班は自分の好きなことやらせてもらってる分、納得できるだろうが。
すでに色んな人がやっていることを、私たちの研究は真似ているだけである。
そのくせ私たちには無断で、私たちの研究予算を使って、外国の製品を輸入してきて(五万とかする機器)、
「なんとかしてください」
と押し付けてくるのだ。
しかも説明書もない。
まず私たちはそれが一体なんであるのか調べるところから始めなければいけない。
インターネットで検索しても、英語のページしか出てこない。
工業は英語の授業なんてろくにねえんだよ。
だから困って、
「これどうやって接続するんですか?」
とか訊いても
「俺はしらねえよ」
だからね。
頭が本当におかしい。
更年期障害なんじゃないの?
と本気で思うくらい頭がおかしいです。
〇これがいいたい
私は上記したような人間には絶対になりたくないと思ってます。
まさに「反面教師」ですよね。
問題はですよ。
「そのような「反面教師」のような人間が教師でいること」
これなんですよ。
学力低下がどうだとか、若者の活字離れがどうだとか。
そういう話も教育では大事かもしれませんが、今の日本で私が最も問題だと思うのはこの教師の質の低さです。
そこが、この国の教育のいちばんの問題点ではないのか。
そう思うんです。
フィンランドは学習到達度世界第1位でしたね。
夏休みは2ヵ月半。
そのかわり、教師の質はめちゃくちゃいいですよ。
本当に選び抜かれた人が教師をやってます。
確かに学校数は少ないかもしれませんが、そもそも日本が多すぎる。
今の日本の教師と、フィンランドの教師。
比べるまでもない。
フィンランドは学力だけでなく「人間性」も評価されるんですよ。
日本は誰でも、それこそ「反面教師」のような人間でも教師になれてしまう。
これからの日本の未来を背負って立つ若者の教育者がそういう人間なのが「日本」なんです。
そういう教師たちが、日本の未来を壊しているんです。
そんな教師から学ぶことは何ですか?
知識だけなら本を読めばいくらでも手に入りますよ。
得るものなんか、ただのやるせなさだけですよ。
前向きな人は、経験をプラスにしていけるかもしれませんが、大半の人間はやる気をなくしていますよ。
学校教育のすることではない。
結論!
反面教師のような人間が教育者である時点でこの国の教育はおかしい。
はじめに
今までの二回の講義では、できる限り客観的に「幸せ」について考えてみた。
今回は、私の個人的な意見を話してみようと思う。
ということはつまり、講義ではなく演説のようなものをするわけである。
享楽主義
まず、私がどう「生きる」ということを考えているか、話そう。
「とにかく、楽しむ」
これだ。
まあ、考えてみれば私は「享楽主義者」なのかもしれない。
楽しんでいなければ、生きている意味がない。
端的に言えば、それくらいに考えている。
じゃあ、楽しくなければ死んでもいいのか。
と問われれば、そういう話とは違う。
楽しめるように生きればいいのだ。
これは誰でもできると思う。
第二回目の講義でも述べたが、大切なのは「余裕」だ。
常に心に余裕を作ればいい。
俯瞰(ふかん)するよう努めればいい。
ネガティブとは
ここで注意すべき問題がある。
よく冷静沈着であることや客観的、俯瞰的なことをネガティブだと勘違いしている人間がいる。
これはまったくの間違いだ。
「世の中って結局こうじゃね?」
などと嘆いて、悲観的に考えている人間というのは、実はかなり感情的になっている。
気持ちが沈んでいる。
まず言っておこう。
状況をとらえる力がなければ、意図的にポジティブになることは難しい。
根っからポジティブな人間は気にする必要のない話かもしれない。
私自身はその実、かなりの心配性だ。
悲観的にものごとを見る癖があった。
それで、人生についてとにかく考えた。
状況をとらえるのなら、冷静にものごとを見つめるのが一番だ。
冷静に見つめれば、状況を理解しやすい。
状況を理解でき、冷静であれば、ある程度の精神的余裕が作れる。
まあ、状況にもよるかもしれないが、とにかく感情的でなければ、ネガティブは避けられる。
整理しよう。
つまり私が言いたいのは、感情的な人間はその実、余裕がない。
余裕を作るために、冷静になってみよう。
そんなことだ。
余裕について
では、余裕があると、具体的になにがどうプラスなのか、考えてみよう。
第一回の講義で私が出した問いを思い出してほしい。
クリスマスに独り身のあなたが、カップルを見たときの心情について、の問いだ。
余裕があれば、なんら動じることもない。
余裕がないと、癪に障るかもしれない。
ある意味では、第一回目の講義で用いたキーワード「内面的豊かさ」というのは、その人の精神的余裕と言えるのかも知れない。
とにかく私はその余裕というものを大切にしている。
常に余裕を胸に秘め、感情的にならないよう努めている。
穏やかに過ごす
さて、ここで疑問がひとつ浮かび上がる。
冷静沈着に生活して、人生が楽しめるのか、という疑問だ。
どう思うかな?
まず、個人的な話をしよう。
私は、一日々々を楽しんでいる。
なぜか。
そもそも、なぜ冷静でいることを重要視したのか。
余裕を作るためだ。
なぜ、余裕を作る必要があったのか。
日々を楽しむためだ。
「冷静」という言い方が悪いのかもしれない。
「穏やか」と言えばいいだろうか。
私は常に心穏やかに、過ごすことを努めている。
些細なことを楽しんだり、いろんなことを許したり、許容できるように精神を落ち着かせるよう、努力している。
だから、楽しい。
今を楽しむことについて
周りの人間が日々を楽しめているようであれば、いいな、と思う。
それがずっと続けばいいな、と思う。
とくに、恨めしく思ったり、調子にのりやがって、と腹が立ったりすることはなくなった。
よく、テレビ番組などで、若いタレントやアイドルが調子に乗っているのを見ると、無性に腹の立ってくることが、以前はあった。
「今は楽しいかもしれんが、あんたら将来のことしっかり考えとんのか」
と、詰問してやりたくなった。
それが、近頃はめっきりなくなった。
もちろん、将来のことを考えることは大事だ。
後先考えずに無鉄砲に生きることがいいことだとは思わない。
たった一度しかない人生を蔑ろにしていいわけがない。
しかし、それだけでなく、今を楽しんで生きるのも同じくらい大切なことではないか。
楽しそうな人を見ると、気分が良くなるようになった。
だいいち、その人に明日が来ない可能性だって、悲しいことだが、ある。
交通事故や、自然災害や、通り魔や、とにかく何らかの外部的影響で、死んでしまう、あるいは病気になってしまう、そういうことがあるかもしれない。
そう考えると、今を楽しむことの大切が分かる気がする。
楽しんでしまえ
結局、人は死ぬ。
普通は死ぬ。
私たちも、だんだんと年老いて、死んでいく。
必ず、死んでいく。
それを思うと、人を憎んだり、自分に関係のないことに怒ることがいかにくだらないか、考えさせられる。
「別にいいじゃないか、そんなむきなるようなことじゃねえや」
それでいいんじゃないのか?
周りの人が、幸せになっていくのも、いいことじゃないか。
楽しいじゃないか。
自分も楽しんじゃえばいいじゃないか。
全部、楽しんじゃえばいいじゃないか。
下らない議論は、笑い飛ばしてしまえばいいじゃないか。
むきなんかならなくてもいいじゃないか。
もしかすれば、人生は無意味かもしれない。
だからどうした。
それでも楽しんでいれば、楽しんだから、素晴らしいじゃないか。
みんなが楽しければ、それがいちばんいいじゃないか。
他人の幸せとか、願っちゃえばいいじゃないか。
その方が、楽しいじゃないか。
腹の立つ先生がいても、その人の幸せを願っちゃえばいいじゃないか。
せめて何かいい出会いでもあってあの性格が更生されますように、とか願っちゃえばいいじゃないか。
もしかしたら、その先生が幸せになれば、人当たりが良くなって、問題が改善されるかもしれない。
みんながみんなの幸せを願って、人に親切をすれば、実際に人は幸せに近づいていけるだろう。
そうなれば、心に余裕が生まれる。
さらに人に親切をすることができる。
これが、世界をもっとよくすることができる理屈じゃないのか。
その方が楽しいじゃないか。
自分が、楽しいじゃないか。
全部ひっくるめて楽しんでしまえ。
そう、私は思っている。
許容
私が常々思っていることを、紹介してみよう。
「人を理解することは、それほど重要ではない。
大切なのは、受け入れることだ」
世の中には理解しがたい人間というのがいる。
ひとりはいる。
しかし、それは別にむきなるようなことじゃないだろう。
問題なのは、その人を、自分が受け入れられるかどうか、許容できるかどうかだ。
そりゃ、そういう人も世の中にはいるさ。
そんなふうに納得してしまえばいい。
むきになったところで、楽しくはない。
あるひとつの結論
楽しめ。
全部、楽しめ。
そして、他の人の幸せも、願ってしまえ。
その方が楽しいだろう。
私も幸せ、あの人も幸せ。
素晴らしい。
みんなで楽しんでしまえ。
今日のテーマは「自己実現」
さて、前回は、「幸せ」と物欲、金銭の関係を考え、「内面的豊かさ」をキーワードに講義をした。
今回は、「自己実現」をキーワードに講義しようと思う。
君たちは今を楽しんでいるか?
そういう質問を前回の講義でした。
どうだろう、楽しめているだろうか。
前回はその原因を金銭面、物欲から考えた。
それ以外に考えられる原因には何があるだろうか。
やりたいことが、できているのかどうか。
このような精神的な満足度も関係があるかもしれない。
例えば、やりたくないことを無理やりにやらされている状態で、楽しくない。
そんな理由が考えられる。
そこで、やりたいことをやれているのか、つまり自己実現できているかどうかが、問題になってくる。
やりたいことをやれていて、満足できていれば、その人は日々を楽しめるのだろう。
精神的な余裕から、些細なことを楽しめるような内面的豊かさが生まれるかもしれない。
しかし、やりたいことをやれていても楽しくない、そういう人間も中にはいるかもしれない。
その原因には、自分が本当にやりたいことを見極められているかどうかが鍵になりそうだ。
順番に考えてみよう。
自己実現と幸福感の関係は
まずは、自己実現ができているかどうかについて考えてみることにしよう。
そもそも「自己実現」とは何かということを整理しておく。
単純に言ってしまえば、夢を叶えられているか、どうか。
そう言うこともできる。
例えば、家族を持ちたいと思った人は、家族を持てているかどうか。
ある会社に勤めたいと思った人は、その会社に勤められているのか。
それ以外にも様々な細かい事象が考えられる。
自己実現できていると、何がどうプラスなのだろうか。
何だと思う?
まずひとつ、満足感が得られる。
これは非常に重要なことだ。
満足感は幸福感に直結する感覚だからだ。
次に考えられるのはなんだろうか。
何があるかな?
「余裕」だ。
自己実現によって(それ以外にも要因はあるが)満足感や幸福感を得ている人間には、ある程度の「余裕」があるように思う。
余裕があれば、ものごとを俯瞰(ふかん)できる。
冷静になれる。
これは実に有益なことだ。
人に優しくする余裕があるのだから。
社会的にみても、人々がこのような満足感や幸福感を感じていることが重要であるようだ。
人がそれぞれに余裕を持っていて、それは自己実現だけでなく、労働条件やさまざまな部分から発生するものだと思うが、余裕を持っていて、周りの人に優しくすれば、社会は居心地がよくなる。
居心地がよくなれば、それは幸福感を感じる要因になる。
好循環だ。
例えば、今現在、国際競争力1位と言われているフィンランド。
この国の制度を学んでみると、なるほど、「余裕」を感じることのできる環境かもしれない。
フィンランドが抱える問題として、高い失業率があるが、それでも国民はそのことを楽観的にとらえているふしが、あるそうだ。
基本的に7時間半労働で、残業はしない。
残業手当がないからだ。
それでも、国際競争力1位だ。
余裕の与える影響は社会的に見ても、強そうである。
なぜ楽しめていないのか
やりたいことをやっているつもりだけど、イマイチ楽しくない。
そんな人も世の中にはいるだろう。
何が原因だろうか。
何だと思う?
冒頭でも述べたが、その原因のひとつとして、
「やりたいことを、分かっていない」
というものがあるだろう。
映画やドラマなどでよくある話かもしれない。
「自分が本当にやりたいことはなんだろう」
と煩悶するあれだ。
それが分からないうちは、なぜやりたいことをやってもしっかり楽しめないのだろうか。
なぜだ?
満足できていないからではないのか。
そう考えることができるだろう。
つまり、本当にやりたいこと、心の底からやりたいと思えることを結局はやれていないのだから、「満足できない」というものだ。
そういった飢餓感から生まれるのは、欲求と焦燥感、といったものがあるだろう。
それらが上手く作用し、「やりたいこと」を見つけられることもあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。
それはさておき、原因として、そんなことが考えられる。
余裕がないと、些細なことを楽しむ気持ちが生まれない。
人に厳しく当たってしまうかもしれない。
それは、ちょっと寂しいことだ。
あるひとつの結論
こんなところでひとつ、まとめてみよう。
幸福感を感じるには、余裕を感じているかどうか、が関係する。
幸福感や満足感を得るには、自己実現できているか、という要因がひとつ考えられる。
「白熱教室」なる番組に触発されたことで、私もひとつ講義をやりたいと思う。
いや、「講義」というよりは「演説」に近いかもしれない。
ここは、どこかの有名な大学の有名な教授になったような気持ちで、堂々と話してみる。
よっていくらか偉そうになり、腹立たしいかもしれないが、しょせん高校生の一見解に過ぎない、と容赦していただきたい。
またこの講義では読者のことを「君たち」と呼ぶことにする。
その方が本物の講義みたいで格好いい、と思うからだ。
生意気ではあるが、内容は大真面目であるから、そこもご容赦いただきたい。
さらに、私は講義をしながら、できる限り問題を提示し、問うていきたいと思っている。
それについて読者に考えてほしい。
どんなものでも自分の意見をもつことは重要だからだ。
また「あとがき」に多少、私の意見を述べてみようと思う。
テーマ「幸せ」
今回の講義のテーマは「幸せ」
幸福についてだ。
ある種、最近流行りの新興宗教の講演会のような題目だが、そこは気にしないでほしい。
私は新興宗教にはまるくらいなら、イスラム教徒になるほうがいい、と考えているような人間である。
(もちろんイスラム教を悪く言うわけではない)
さて、これから、3回に渡って、「幸福」について考えようと思う。
人が生きていく上で、これ以上に重要なことがあるだろうか。
人間は、ほぼ例外なく、幸福を追い求めている。
日々を楽しく生きることを考えている。
それはきっと間違っていない。
脳科学者の茂木健一郎が言うように、ほとんどの人間が「快楽主義者」であることは間違いないだろう。
「楽しむ」ことについて
さて。
まず、第一回目の講義では「楽しむ」ということについて、考えてみよう。
最初に、訊いてみたいと思う。
君たちは、日々の生活を楽しんでいるかな?
仕事やプライベートをしっかり楽しめているかな?
これは非常に重要な問題だ。
この問いで、その人が今、幸福であるかどうか分かる。
日々を楽しめている人間は、ある種、幸福だと思う。
それは間違いないだろう。
問題は、楽しめていない人間だ。
なぜ楽しめないのだろうか。
何故だと思う?
考えてみてくれ。
物欲が満たされていないからだろうか。
しかし、今の日本は世界的に見ても非常に豊かだ。
おそらくこの記事を読んでいる人間の多くは日本人であると思うが、どうであろう。
日本は貧しいか。
金銭の問題だろうか。
不景気のせいで、生活は楽しくないのだろうか。
お金で幸せは買えるのか
ここでひとつの重要な問題が浮かび上がってくる。
それは
「お金で人は幸せになれるのか」
という問題だ。
君たちはどう思うだろうか。
お金で幸せを買えると思うかな?
確かに、お金があれば、娯楽を手に入れることができる。
お金があれば、小説を買うことができる。
映画を見に行くこともできる。
なるほど、確かにお金は幸せとまったく無関係ではなさそうだ。
では逆方向から考えてみよう。
お金で幸せは買えない、という理由にはどんなものがあるか。
どんなものがある?
買える、と考えている人も考えてみてくれ。
どんなものがあるだろうか。
最低限度の生活を送るために必要な金銭については、置いておこう。
それとは別に、余分な金銭についてだ。
おそらく、金銭では幸せを買うことができない、と考える多くの人は
「幸せとは、精神的なもので、内面の豊かさから生まれる。外部からもたらされるものではなく、ようは気の持ちようである」
こんなふうに考えているのではないだろうか。
なるほど、そうかも知れない。
例えば、公園の木を見て嬉しくなる人と、そうでない人について考えてみればいい。
木を見て嬉しくなる人には、内面的豊かさがある。
だから幸福になれる。
そういう理屈だ。
二つの考えをまとめてみよう。
お金があれば、サッカーの試合を見に行くことができる。
サッカーの試合を見れば、楽しくなる。
つまり、お金で「楽しみ」買うわけだ。
これが「幸せは金で買える」理屈。
では、サッカーの試合を見なければ楽しくないのか。
サッカーの試合を見て楽しめない人間はいないのか。
サッカーの試合を見なくても楽しめるのではないか。
これが「幸せは金で買えるものではない」という理屈だ。
難しいから、整理しよう。
つまり、「買えない」派が言いたいのは、サッカーの試合を楽しめるのはもともと、「サッカーを見れば楽しめる」という内面的豊かさがあるからであり、その内面的豊かさがなければ、お金を払ってサッカーの試合を見ても楽しくはないだろう、ということだ。
さらに言えば、お金を払ってサッカーの試合を見なくても、内面的豊かさがあれば、道を歩いているだけでも、幸福を感じることはできる、そういうことだ。
「内面的豊かさ」とは
ここまで、述べてみると、「幸せはお金では買えない」という考えがまるで答えであるかのようだ。
しかし、そこで反論してみよう。
内面的豊かさは、どこから来るのか、どうやって生まれるのか。
これについて考える前に「内面的豊かさ」とはなんだろうか、そのことについて考えてみよう。
君たちにも考えてほしい。
感受性だろうか。
厳密には違うかもしれない。
「心の成熟度」
こうのように表現することができるかも知れない。
例えば、このように考えてみよう。
サッカーの試合を楽しめない人間がいるとする。
なぜ楽しめないのか。
何故だと思う?
その人の心が、考えが「サッカーの面白さ」というものを許容できていないからだ。
もっと分かりやすくしてみよう。
恋愛についてだ。
君は独り身だとする。恋人もいない。
クリスマスイブに、君は都合あって駅前を歩いている。
すると、目に入ってくるのは、手をつなぎ笑顔で歩くカップルたちだ。
君はそんなカップルを見て、どう感じるか。
これが「心の成熟度」であり「内面的豊かさ」だ。
カップルを見て、楽しそうだな、幸せそうだな、と心穏やかに思える人は、「内面的豊かさ」を持っている人だと言える。
逆に、当てつけかよ、調子に乗りやがって、と腹を立ててプンスカ怒って家に帰る人間は、「内面的豊かさ」が足りない、と言える。
どちらの人間が幸福だろうか。
それが「内面的豊かさ」の発想だ。
「内面的豊かさ」はどうやって作られるのか
「内面的豊かさ」はお金で買えるのか
さてここで、問題に戻る。
君たちは、どう思うかな?
果たして内面的豊かさはどこから生まれてくるものなのだろうか。
たぶんに「教育」から発生してくるものではないのか。
生まれたときから、今日にいたるまでのさまざまな教育や学習、文化が、自分の人格を形成し内面的豊かさというものを育む。
読書や観察、議論が内面的豊かさの成長につながる。
なるほど、またここで問題が発生する。
内面的豊かさはお金で買えるか、買えないのか。
君はどう考える?
内面的豊かさはお金で買えるものなのか。
例えば、本が分かりやすい例になるだろう。
哲学書や思想に関する本を買うにはお金が必要だ。
つまり、内面的豊かさを手に入れるための教育を受けるには、学問をするにはお金が必要だ、と考えることができる。
しかし、本を読みたければ市立図書館を利用すればいい、そんな意見も聞こえてくる。
では大学はどうだろう。
大学へ通うにはお金がいる。
奨学金制度もあるが、日本の場合、その多くは返済の義務がある。
利子まで取られる。
つまり、高等教育を受けるためにお金が必要ではないか、という話だ。
さらに良い大学に入るためには勉強しなくてはいけない。
勉強するにはノートがいる。
ノートを買うにはお金がいる。
その他、お金があれば良い教材を揃えることができる。
事実問題として、東京大学合格者の保護者の年収は、一般の家庭のそれを上回っている。
そういう事実がある。
つまり、お金で質の良い教育を受けることができる。
お金で、内面的豊かさを得ることができる。
こういう理屈がある。
さて、この考えに対して、君たちはどう反論する?
やはり「幸せはお金で買える」ものであるのだろうか。
真っ先に思いつく反論は
「大学に行かずとも、内面的豊かさを磨くことはできる」
というものだろうか。
例えば、先に市立図書館で本を読めばいい、という意見があった。
それを利用すれば、わざわざ大学に行かずとも、内面的豊かさを手に入れることができる。
あるいは小学校、中学校の義務教育機関は学費が不要だ。
そこの学問で形成されればいいし、またそうあるべきだ。
学生と上手く議論し、内面的豊かさの成長を促すことができる教師として優秀な人間がその学校にいるかは別にして、手段として、それが考えられる。
このような反論になるのだろうか。
しかし、どう考えても、今の義務教育機関は、内面的豊かさを育むような教育をしているとは考えられない。
内面的豊かさを手に入れる学生は、学校教育とは関係無しに自発的な学習から、それを学んでいるように思える。
一方で、これは大学には当てはまらないのだろうか。
確かに講義の内容次第では、義務教育機関より刺激的な学習が出来るかもしれない。
だが、その講義が自身にとって刺激的であるかどうかは、そのときすでに形成されている内面的豊かさによるのではないか。
つまり、大学以外の場での内面的豊かさの形成、というのは事実上存在する、と考えられる。
考えることが「内面的豊かさ」を育てる
先にも述べたが、内面的豊かさを形成するのは、読書や議論ではないか、と考えられる。
しかしなぜ、読書や議論が内面的豊かさにつながるのだろうか。
「内面的豊かさ」はその思考法と大きく関係していることは察することができるだろう。
柔軟かつ冷静で穏やかな思考が、「内面的豊かさ」と言うこともできる。
これは、数多くの読書と、日常的な会話や議論を通じて培うことが可能だろう。
よく考えてみれば、世の中にはこの「内面的豊かさ」を備えた人間はそう少なくはない。
そして、彼らの多くは、高学歴であるのだろうか。
どう思う?
学歴というよりも、経験や見聞、知識から「生きる」ということよく考えているような人が多いのではないだろうか。
逆から考えてみよう。
「内面的豊かさ」のない人間は、どんな人物だろう。
想像してみて。
まず、その人の考え方は柔軟だろうか。
その人の考え方は、偏見や感覚的で、また感情的ではないか。
その人に、多角的視点から物事を見つめる力はあるのだろうか。
世の中には論理的に物事を考えられるが、感情的な人間もいる。
こういっては何だが、そういう人間は自分を利口だと思っている場合が多い。
そうなると多角的に物事を見ようとしない。
自分のものさし一本で、万物の尺度が測れると信じているのだろう。
これは私の極めて個人的な意見であるが、高校教師にはそういう人間が多い。
その分野については、彼らは専門家、と言えるかもしれない。
そのことからの自負心があるのかもしれない。
そしてその自負心は極めて感情的なものだ。
冷静に考えられる人間は、向上する余地に気づく。
多角的に物事が見えるからだ。
だから向上しようとする。向上心だ。
この向上心もまた「内面的豊かさ」と言えるかもしれない。
つまり、「考える」ということが、「内面的豊かさ」を磨く上で極めて重要だ、と考えられるのではないか。
とにかく考える人間は、分析をするようになる。
これが冷静沈着な、多角的視点や物事を柔軟に捉えるための基盤になる。
あるひとつの結論
ここで、あるひとつの結論が導かれたように思う。
私的見解によるところもあるが、ご容赦願いたい、ということは冒頭で述べた。
まず、「楽しむ」ということについて考えた。
「楽しむ」ことと「物欲」の関係。
「楽しむ」ためには、たぶんに「内面的豊かさ」が必要。
「内面的豊かさ」は「考える」ことで育むことができ、金銭は必要にならない。
ただし、金銭も発想次第では、幸せのために用いることができる。
次回予告
次回は「楽しむ」ことについて、別の問題を考えたいと思う。
初めに、君たちに問うたことを思い出してほしい。
「君たちは、日々の生活を楽しんでいるか?」
そんなことを訊いた。
そして今回は、物欲や金銭について、また「内面的豊かさ」について考えた。
次回はもうひとつの原因
「自分の夢や、やりたいことをやれているのか」
ということ、つまり自己実現について、考えていこうと思う。
リンク「第2回」
それがなえれば、どんな理屈も抗弁も、意味をなさない。
そういう点で、私は王陽明や河井継之助を尊敬しているが、実際、行動の伴う理屈、というのは難しい。
私に出来るアクションはなんだ。
そう考えると、小説家が一番しっくりくるのだ。
インターネット社会が形成され、結果的に「評論家」が増えたように思う。
私も同じだ。
誰もが手軽に意見を、評論を発信しうる環境が出来ているのだ。
自然、人はそれで満足し、行動が二の次になってしまう。
恐るべき時代だ。
考えてみれば、私がしようとしている小説も、ある種、評論かもしれない。
物語り、という娯楽がありながら、中身は世の中に対する私の意見に過ぎない。
これは「行動」と呼べるのだろうか。
悩ましい。
最近、ある筋から三島由紀夫の「行動学入門」という本を入手した。
まだ、読んではいないのだが、斜め読みした限りでは、濃厚な内容になっている。
これらの本は、私を刺激してくれる。
ということは本もまた、「行動」と言えるのかもしれない。
行動には勇気や覚悟が必要だ。
難しいかもしれないが、大切であり、重要だ。
なんたって「法」だ。
知らなくてはいけないことだ。
本来は。
でも、私はよく知らない。
買えば高いのだ。
もちろん、図書館に行けば、本はある。
うーん。
でも、何か引っかかる。
法律書、というのは一人一冊、全国民に配るべきものじゃないのか?
それって変か?
この国のルールを知るのは当然だ。
まあ、必要のない専門(?)的な、箇所もあるけど。
でも、なんだか、配って当然のような気がする。
「はあ?」
「障害者ってのは、経済的に見たって、特別、有益なものでもないだろう」
「ローランド・カークは綺麗な音楽を作る」
「ローランド・カーク?」
「目の見えないサクソフォン奏者だ」
「まあ、芸術の分野じゃありなのかもしれないけど」
「ひとつ、君に訊いてみたいが」
「ああ」
「お前はなぜ生きているんだ?」
「はあ?」
「生きてる理由だ」
「そりゃ、生きてりゃ楽しいことがあるからかな」
「それだけか?」
「それ以外に何があるんだよ。人生に意味なんかねえだろうし、せいぜいが楽しく生きるしかねえだろ」
「ニーチェも言っていたんだ」
「何を?」
「『人生は無意味だが、それを受け入れた上で前向きに生きることが大切だ』」
「へえ」
「君は楽しいから生きると言った。それはおそらく間違いではないだろう。経済活動のために生きているわけではない。障害者だって同じだ。経済活動のために生きてるわけじゃない。何のために、なんてのは愚問なんだ。そもそも、世の中は無意味だ、と言うのに、障害者に意味は、と問うのは一種のパラドックスじゃないのか」
「何言ってんのか、よくわかんねえけど」
「要するに、障害者だからって特別ああだこうだと言うのはおかしいって話だ」
「福祉とか施設とか問題があるけど」
「生活支援は必要かもしれないな」
「障害者は特別じゃないんだろ?」
「世の中は健常者を中心に出来上がっている。健常者にとって暮らしやすい世の中で、もともと平等な作りではないんだ。そもそもの組み立てがおかしいのだから、改善は必要になる」
最近、政治経済の勉強をしているのだけれど、それだって学校では教わらないから独学だ。
つまり自分で教材を買う必要がある。
金がいるのだ。
勉強するには金がいる。
当たり前のことだが、辛いものもある。
今、アルバイト先を探しているところだが、意外と見つからないものだ。
(本気で探してないだけかもしれないが)
勉強したい。が、本が買えない。
まあ、仕方のない部分はあると思うが、それにしても面白そうな本、勉強できる本は大抵、高い。
おそらく需要が少ない為に仕方なく高くついてしまうのだろうが、そうするとますます手が出せなくなってしまう。
ためになる本というのはもっと安く提供できるように、もはや国家が取り組んでもいいんじゃないか。
まあ、自分勝手な意見ではあるが、「こども手当て」よりはためになるんじゃないのかな。
こども手当てもっらた子供はトイザラスに行ってるんだぞ!
本当に貧しい家庭に保護を出すのは分かるけど、ただ子供だから手当てを上げるのはおかしい。
それくらいなら大学とかの奨学金制度をもっと充実させるとか、とにかく勉強するための支援は大事じゃないのか。
まあ、まだその辺の事情はよく分からないんだけど。
ライトノベルと哲学や政治、世界情勢の本とどちらを読むのがためになるのか。
まあ、ライトノベルもいいけど、政治経済や世界情勢は本当に大切なことだろう。
勉強すべきことだろう。
学校じゃ学べないことを、本は教えてくれる。
でも、その本がなかなか買えない世の中だ。
社会人ならまだしも、学生には厳しいものがある。
まあ、あれこれおいおい考えよう。
米百表の精神は何処に。
若いシングルマザーが幼い子供二人を家に置き去り(軟禁と言えるかもしれないが)にして、放置していた、という事件。
ニュース全般では母親側を一方的に責めていたが、日本にも責任があるような気がする。
母親がまだ子供気分で「母親」になっていなかった、という旨のコメントには、なるほど、思ったりもしたが。
日本の子育て支援制度がいかに薄弱か、ということを見直すべき事件でもあるんじゃないか。
若いシングルマザーがたった一人で幼い子供二人を育て上げるのはどれほど大変なのだろうか。
私には想像もつかない。
母親は疲れきってしまったのではないか。
「責任感がないんだ」
とは岡目八目、他人はなんとでも言える。
フランスなんかはその辺が手厚い。
ああ、「押し付けがましい」というのは、
「『不都合な真実』、絶対見るべきですよ」
とか、クラスター爆弾の話とか、体質改善とか。
もともと私は感受性がとても強いと思ってます。
(自分で言っちゃいます)
子供の頃、マトリックスを見た後はサングラスに黒い服を着て、友達と遊ぶ。
ブルース・リーを見れば「アチャー」と叫んだりする。
白虎隊を見た後は妙に大人しくなって、真面目になる。
親にも「お前は、ホントに影響されやすいな」と言われました。
そして「ああ、ドラゴン桜でも読ませるか」と。
両親の思惑は的中し、影響受けた私は勉強しはじめるのですが……。
(『ドラゴン桜』についてはググるしかない)
そういう男なのです。
今は昔に比べ読む本の量も、見る映画の量も増えました。
気のせいか、質も向上しています。
よって色々と考えることが多くなりました。
例えば「行動が世界を変える」
というのもそうです。
世の中を動かすのは金でも権力でもなく意志であり、意志から生まれる行動こそが全てなんだ、と。
そんなことを考えたりしたのです。
そしてそれを発信しようと思いました。
ただ思っているだけじゃ仕方ない、行動しよう、と思ったのです。
まあ、小さな行動ですが(笑)
でも、また本を読んでいて気が付きました。
自分の価値観だけで世の中は測れない。
自分が間違うことはない、って過信が一番の間違いだってことです。
マーク・トウェインの名言があります。
「What go to us into trouble is not what we don't know.
It's what we know for sure that just ain't so.」
意味は
「厄介なのは、何も知らないことではない。実際は知らないのに、知っていると思い込んでいることだ。」
実に深い言葉です。
本当にそうです。
私だってそうです。
なんでも、と言えば過ぎますが、なんだって知っているような気でいたのは事実です。
「同年代じゃ、俺ほど色々考えている奴はそういないだろうな」
と思っていました。
今思えば非常に傲慢です。
そういえば、ソクラテスも言っていました。
有名です。
「無知の知」
本当に大切なことは誰も知らない。
知らない、ということさえ知らない。
知らない、と自覚することから本当の知は生まれる。
要するに、私はもっと謙虚に生きようと思います。
クラスター爆弾という、最低な武器を作ったり使うのはやめましょう、という条例だが、アメリカ、ロシア、中国はサインしてないそうだ。
なぜサインしないのだろうか。
使うつもりがある、ということだろうか。
もう「丸裸」になってしまえばいいのに。
ガンジーのように非暴力不服従の精神を見習って。
全ての国が一度に武力を捨てることは難しい。
しかし、武力行使で世界を動かす時代は終わりつつある。
まず、自分たちが、先陣を切って進めていく必要がある。
とにかく誰かが始め、そこから少しずつ状況を変えていく。
すぐに成果を求めたがる気持ちもわかるが、とにかく変わることが大切なのだ。
先陣を切って武力放棄することは怖いだろう。
しかし勇気ある行為だ。
歴史にも残るだろう。
今の世の中でもっとも影響力があるのは間違いなくアメリカだ。
アメリカが鍵を握っている。
3年生にもなると進路のことで頭がいっぱいです。
幸い、私には比較的明確な将来の夢というものがあるので大学選びにそこまで苦労はしていませんが、まだ迷いがあります。
私が通うは工業高校です。
工業高校、あるいは高専を受けようと考えている高校受験者に私の考えていることを参考までに。
工業高校は進学向きじゃない。
進学するつもりなら進学校あるいは高専に行ったほうがいい。
・普通教科をほとんどやらないから進学してからついていけない。
・学校によると思うが、英語の学習が満足にできない。
・大学に行ってから補習等でクソ忙しくなる。
(大学による)
・ひどく選択肢を絞られる。
工業系が好きで、大学まで行って研究したい、と思うなら高専へ行け。
高専は就職も進学も強い。
それにたとえ高専でビリの成績だったとしても、工業高校のトップより頭が悪くても、高専を出た奴の方が就職してから
「高専を出てるんですか!」
と周りの人の感心ともつかない副産物が生まれる。
(私の父です)
(普通科目をあまりやらない、という点では工業と似ているらしい)
そもそも、工業で勉強することは大学の工学部で勉強できる。
だから進学校で勉強してから、工学部にいけばそれでいいと思う。
工業や高専は女子が少ないし。
逆に、高校をでたら就職したい、という人は工業高校に来るといいと思う。
特に伝統のある、歴史の長い学校だ。
歴史は長ければ長いほどいい。
その方が社会にOBがたくさんいるから、就職率がいい。
(自分の母校から獲りたい、という人が多い)
それに、授業がそれほど難しくないから卒業も楽だし、資格が取り放題だ。
1,2年生のころはあまり授業の予習復習が大変じゃない。
むしろラクショウ。
やらなくても何とかなるくらいだ。
その時間を資格の勉強に使うといい。
工業は資格の斡旋が多い上に専門の先生、設備、道具があるから対策し易い。
資格は学歴よりも確かな能力として評価される。
就職するには資格はあった方がいいし、多いほうがいい。
また難しいものが。
逆に、工業高校に通っていて、進学希望でもないのに資格をもっていないと
「君は3年間、何をやっていたのかね?」
と詰められてしまう。
資格をもってれば、万が一、仕事をやめても再就職し易いだろう。
それに公務員にもなれる。
地方公務員から警察官、消防士。
自衛隊に行った人もいる。
就職に関しては、工業高校はかなり「強い」といえるだろう。
つまり
進学希望は進学校、あるいは高専へ。
就職希望は工業高校へいけばいい。
最後に、この記事が参考になった、納得した、という人は、本記事の拍手ボタンを押していただけると幸いです。
「ビートルズやディラン好きは変わっているのか」
とう旨の質問が投稿されていたのを発見しました。
肯定的意見も否定的意見もありました。
こういう議論的な展開をしている記事をみるといつも思う事があるんです。
「どっちもどっちだ」
どちらの言い分も分かる。
まあ、中にはテンションにまかせた変な書き込みもありますが、基本的にどちらも正論と言えば正論を言っている。
そこで思う事が
「それぞれ、意見が極端じゃね?」
たいていの解答が「YES or NO」
バランスの取れた、中間くらいが何でもベストだと思います。
一長一短、どんなことにも良い所と悪い所があると思う。
さきほどのネタでいえば
ビートルズなどの古典とも呼べそうな音楽は確かに古い。
それによっていくつかの短所はあると思う。
でも、原点的な発想はあるだろうし、それを聴いて「いいな」と思うことは悪くないと思う。
だからと言って、現代的な音楽を敬遠するのも端的。
音楽は普段の会話より本音を言い易いところがあるから、その時代の色というのは絶対に浮かぶと思う。
軽薄、だとか、中身がない、だとか、そういう意見もあるけれど、じゃあ何でそんな歌が売れているのか、とか考える材料にはなると思う。
もちろん、中身の詰まった、思いの詰まった曲もあるし。
「古いやつはダサいから嫌だ」
「最近のは薄っぺらい」
と言って、極端な判断は、ちょっと損じゃないかな。
いつからか
「バランスこそ究極の目標」
だと思い始めた。
もちろん、突き詰めていくことも大事だけれど、そこには客観的視点を置いていってはならない。
サッカー部がサッカーにのめり込むのはいいけれど、だからと言って
「野球の何が面白いんだ?」
なんてことを言うのはおかしいと思う。
極端な意見を言う人は、たいがいどちらかしかまともに向き合ったことがないと思う。
どちらも、どれも、まともに向き合った人は、たぶんバランスの取れた判断ができる気がする。
こだわりもいいけど、柔軟性も大切だと言うこと。
これもバランスだ。
ただ実践が難しい。
僕は普段からそこまで本音のトークをすることはない。
いや、思ったことはそのまま口に出しているかもしれないが、ジョークのニュアンスを込めて笑いながら、というのがほとんどである。
そもそも本音とは何なのか、について考えてみる。
本当の気持ち、ということだろうか。
そもそも本当の気持ちとは何なのか、について考えてみる。
わからない。
だいたい普通に過ごしていて本当の気持ちを意識する瞬間が訪れることは稀ではないか。
ないことはない。
私が意識する瞬間はどうにも波長の合わない人間と会話しているときだ。
そういう時の私の本音はどうにも「破壊的」な言葉で表されるに違いない。
「本音で話す」ということを意識して行うことは、実に破壊的ではないのか。
「本音で話せない」という状況について考えてみる。
「本音で話さない」理由としては、主に二つ、思いついた。
相手を傷つけるかもしれない、あるいは、自分が傷つくかもしれない。
このどちらかに大半の例は収まってくれる気がする。
無論例外はあるだろうが、面倒なので考えない。
今は議論をしているわけではないし、単なる私の思考整理である。
もし仮に「すでに自分が傷ついている」という状態であるなら、それはもはや「本音トーク」というテーマに収まる話ではないので、別のテーマで話させていただきたい。
そこで私の出す結論は、必ずしも「本音で話す」ことは善ではない、というものだ。
子供はなんでも素直に「本音を話す」からケンカをするのではないだろうか。
極力「我慢する」ことも大切である。
そこで、「我慢する」ことについて考えてみる。
果たして「我慢」は悪いことかなのか。
いや決して「悪いこと」ではない。
我慢が世界を平和にするし、秩序を守る。
無論、例外はある。
「悪いこと」をしている相手に対して「我慢する」ことは世界を平和にしないし、秩序を乱す。
じゃあどうすればいいのだ、という議題については私の裁量を超えたテーマであるので、私が大人になってから議論する。
結論。
〇「本音トーク」は必ずしも善ではない。
ただし、例外はある。
〇「我慢する」ことは必ずしも悪ではない。
ただし例外はある。
ポジティブに頑張るのに、非常に使える発想です。
なんか酷い目にあっても
「たぶん前世で俺が悪いことしたんだろうな」
と納得することができる。
因果応報みたいな。
逆に、
「今こんなに苦労してんだから、生まれ変わったときは、もっと自由に生活できるんだろうな」
と発想できるわけです。
何がいいって、心を安らかにして頑張れるところですよ。
八つ当たりとかなしに、「まぁいっか」と頑張れる。
絶対に生まれ変わる、と思えばなんか頑張れる気がします。
人生が一回しかないなんて寂しいじゃないですか。
伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』みたいな。
生まれ変わるんだったら、人のために生きてみるのも悪くない。